【大紀元日本3月12日】
本文は、私が知り合った先天道を修めた平先生(500歳)の経歴を記録したもので、文章はすべて記憶によるものである。何人かの人の記憶を統合したもの、または私と平先生の間であった途切れ途切れのいくつかの対話を元に書いたものであるため、文の繋がりがよくないと感じるところもあると思われる。私はそれらを一つに統合し、論理的な文脈を整えるため、想像を使った文字を加える場合があったが、事実を離れた記述はない。平先生との経験から、私は世の中の多くの出来事は人が思っているものとはまったく違うということが分かった。本文を読んだ後、多くの人は考え方が変わると思う。
十一、妖狐(一)
「插花娘娘」の話が出ると、村民はみんな口を開き始めた。彼らの話によると、彼らの多くは「插花娘娘」にお参りに行ったことがあるが、とても利くので、遠くからも人がお参りにくると言った。神医は行き方を聞くと、「插花娘娘」とは聞いたことがないが、どういう菩薩であるかと、平先生に聞いた。
平先生も聞いたことがないと頭を振り、見に行かなければならないと言った。神医は、これらのことは自分はあまり詳しくなく、もし礼儀作法を間違えて菩薩を怒らせると大変なので、平先生にお任せすると言い、自分は村民たちの好感を得るために、村に残って無料で病気を治すつもりだと言った。慣れない他郷で何かを行おうとするのは容易ではないし、後ほど「豚人」を糞の池から引き出す時も、彼らに助けを求めなければならないからだと話した。
平先生はうなずいて同意した。私も平先生について「插花娘娘」を探しに行った。数時間後、ようやく「插花娘娘」の廟を見つけた。遠くまだ廟に近づく前に、平先生は歩くのを止めた。彼は、廟の中から一種の重い妖気が感じられるので、中に祀られている菩薩は、本物の菩薩でないというのだ。
「插花娘娘」の廟は田畑の中にあり、あまり大きくはなかった。私たちは田畑の中間の小道に沿って歩いて行った。平先生は、廟の中は汚れていると言い、私を中に入らせずに、外で待たせた。10分後、彼は廟から出て、何も言わずに私を連れて帰って行った。帰る途中、私が何度も聞くと、彼はようやく教えてくれた。あの廟の中にある「插花娘娘」は妖狐であると言うのだ。彼の話に私は驚いて、どうすればいいのかと聞いた。彼は、この妖狐は、すこし対応し難しいと言った。妖狐には、たくさんの弟子やイタチと蛇の妖怪の仲間があり、その中には人間に憑いたものもあるなど、非常に対応しにくいというのだ。一匹だけの妖狐ならあまり問題ないが、こんなにたくさんの妖怪が一斉に駆け寄ってくると、取り除くのは難しいと言った。しかも、もっとも肝心なのは、それらは人間に憑いて人間を制御しているので、さらに難しくなっているという。
私は再び好奇心が涌いてきて、動物が修練して妖怪になったり、人間に憑いたりするとは、いったいどういうことかと聞いた。平先生は、生物体にはみんな「脈」があると言った。私はうなずいて、覚えていると答えた。彼は、「脈」は、宇宙三界中の生命循環にとって、とても肝心な要素であり、みんなそれによって連携し合い、通じ合うが、ある特殊な脈は最初から通じている訳ではないので、後天的に通すしかないと言った。修練することによって、それが開かれるという。
また、ある特殊な「脈」は、一旦通じると、その生命は超自然的な力を持つようになり、それがいわゆる「超能力」であるという。例えば、人は修練を始める前に、必ず「任」と「督」の二つの脈を通じさせなければならず、さもなければ修練することはできないという。「脈」を通じさせる目的は、体の百穴を開いて、自然や宇宙と通じ合い、宇宙のメッセージを受け入れ、それの特性に馴染んで、最後に「真我」を成就することである。ある特殊な脈が開かれると、ある程度、宇宙と通じ合うことができ、宇宙から幾つかの能力を受けることができるが、これが正に「超能力」であるという。
また、動物には人心がなく、自然の中で生じ、人類に汚染されていないため、更に自然に近づくことができ、それと通じ合うことは、なおさら容易である。従って、動物がいったん「霊気」を得ると、妖怪になりやすいという。平先生によると、「霊気」とは、動物が無意識の状態で、偶然に自分の「脈」を通じさせてしまい、それでだんだん超能力を持つようになり、意識が形成され、日を重ねると妖怪になるのだという。それが人間に憑く場合、憑き物と呼ばれるのだ。
また、人が修行する時は、座禅を組んで脈を通すことができるが、動物も同様に、ある特殊な姿勢で長期間靜息すると、知らないうちに自分の幾つかの特殊な脈を通じさせてしまい、それで「霊気」を得てしまうという。この「插花娘娘」は造られた当初、本当の開眼の目的に達していなかったため、神に管轄されていないのだという。更に、今の人々は誠実に修行することや、善に向くためにお参りに行くのではなく、病気を治したり、災難を免れたり、財物を求めたり、子供を求めたりなどのためにお参りするので、考えることはみんな不純で良くない思いなので、「插花娘娘」を汚染させてしまった。そのため、この妖狐は「插花娘娘」に憑いて、人を害することができるのだという。
私は、なるほどと、はたと悟った。当時は、まだ若く、何も恐れることがなかった私は、胸を叩きながら、私はこれらの妖狐を恐れないので、斧を与えてくれれば、即その菩薩像をぶち壊しに行くと言った。私の話に、平先生は一瞬驚き、厳粛に私に話した。若い人は話す時も、何かの行動を起こす時も再三考えなければならず、妄言したり、妄動したりしてはいけない。無意識に口に出した一言が、神を驚かせる恐れもあり、その結果を負わなければならない、と言った。私は頭を下げ、自分が間違ったと知った。
平先生は、私を神医のところに行かせ、神医に私の面倒を見るよう頼んだ。そして、私には、勝手にあちこちに行ってはいけないと言い、自分は山に入って、妖狐に会いに行くので、夜に帰ってくると言った。私は、彼に迷惑をかけてはならないと思い、彼について行くことはしなかった。
神医は村民の家に大きなテーブルを設置し、手に1本の銀針を持って、村民たちの病気を治していた。みんな長年経っても治らない、各種の難病であった。彼は私を側に座らせ、勝手に歩いたり、走ったりしないよう頼んだ。
戸口には、たくさんの人が囲んでいて、話したり、笑ったりしながら、神医の珍しい治療を見たり、診てもらいたくて並んで自分の番を待っている人もいた。午後になって、突然一人のおばあさんが狂ったように暴れながら戸口に走ってきた。彼女は泣きながら跳び、口の中では何か知らない言葉をつぶやいていた。
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