【大紀元日本4月15日】
慈母手中線
遊子身上衣
臨行密密縫
意恐遅遅帰
誰言寸草心
報得三春暉
慈母(じぼ)手中の線、遊子(ゆうし)身上の衣。行くに臨みて、密密(みつみつ)に縫う。意は恐る、遅遅(ちち)たる帰りを。誰(たれ)か言う、寸草(すんそう)の心の、三春(さんしゅん)の暉(き)に報い得んとは。
詩に云う。慈しみ深い母。その手中の糸の線は、遠く旅立つ息子に着せるための衣服を縫っているもの。出立の日が近づくにつれ、母は一針一針、細やかに縫っていく。しかし母は心の中で、息子の帰りが遅くなることを心配している。母の愛に育まれて成長した一寸の小草のような息子の心が、春の明るい陽光のような大慈母に報いることができるなど、誰が言うだろうか。
作者は中唐の詩人、孟郊(もうこう、751~814)。科挙の試験を何回受けても落ち続け、ようやく進士に及第したのは45歳ぐらいだったらしい。
以下は、詩の風景の想像である。何回も落ちた受験生の息子を、母は祈る思いで毎回送り出したのだろう。息子の合格はもとよりだが、それ以上に、試験場に向かう道中の無事と、肉体と精神を極限まで追い込む過酷な試験期間中の無病を、母は息子のためひたすら祈ったに違いない。
そうすると、詩のなかで旅立つ息子の衣服を縫う慈母は、作者がまだ先の見えない受験生であったころに何回も見た実母の姿であったと見てよい。実際の話としては、進士に及第した4年後、50歳に近くなった作者が、官吏として赴任した江蘇の地へ老母を呼び寄せたときに作ったのがこの詩である。もはや中年さえ過ぎた息子の、せめてもの孝心が詩の主題であることは言うまでもない。
三春とは、孟春、仲春、季春の三つを指す。つまりは春ということだが、作者がこの詩を詠んだ季節が春であったかは定かではない。ただ、母の大きな慈愛を春の陽ざしに例えたのは、日本人も大いに共感するところであろう。
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