東京・浅草 空を見上げる人々の街

【大紀元日本5月26日】5月22日、東京はあいにくの雨であったが、この日から開業の東京スカイツリーには多くの人が訪れたという。

背の高い建造物を作ることに世界中で競い合うような、単純な価値観をもつ必要はないだろう。むしろ大切なのは、この日から50年後の未来にも、このタワーと地域が多くの人に愛され続けていることだ。そのためには、地元の人々と訪れる観光客の双方が、マナーを守り、美化に努め、良い環境を保っていくためのたゆまぬ努力を惜しむべきではない。

その3日前の19日、隅田川に臨む浅草を訪れた。天気は良い。ちょうど3日間の三社祭の中日(なかび)にあたるこの日、浅草の街は祭好きの江戸っ子であふれていた。

浅草は地元のようなものなので、数え切れないほど来たことがあるが、はて、どうも今までとは様子が違うようだ。

道行く人々が皆、空を見上げている。見上げる先を同じく見てみると、そこにあるのは青空に向かってきりりと立つスカイツリーの勇姿。なるほど、伝法院通りや浅草寺の境内など、どこからでも目に入るため、「あ、こんなところからも見えた」という思わぬ発見に、つい皆が足を止めてカメラを向けてしまうのだ。

交通安全には、くれぐれも気をつけていただきたい。ただ、人々が空を見上げている街というのは、なかなかいいものだと思った。これは理屈ではない。人間は上を向いたとき、それが単なる無意識の動作であったとしても、どこか発展的な明るさと希望を、お互いに感じ合えるものらしいのだ。

では「下を向く」ことが良くないかというと、そうではない。深い思索や洞察、熟慮などは、下を向いているときにこそ発揮される能力であろう。

詩人・谷川俊太郎に「うつむく青年」という詩がある。

うつむいて
うつむくことで
君は自分を主張する
君が何に命を賭けているかを
そる必要もないまばらな無精ひげと
子どものように細く汚れた首すじと
鉛より重い現在と
そんな形に自分で自分を追いつめて
そんな夢に自分で自分を組織して

 この詩のなかの若者は、うつむいている。つまり「下を向いている」のだが、それを見つめる詩人は、かつて自分もそのような青年期を経験したものとして、固く心を閉ざして下を向き、その態度で「否」と主張している若者に対して、深い理解と共感をもつのである。

うつむいて
うつむくことで
君は生へと一歩踏み出す
初夏の陽はけやきの老樹にも射していて
初夏の陽は君の頬にも射していて
君はそれには否とはいわない

 下を向く時、人は多く、内的な苦しみに歯をくいしばって耐えている。しかし人にはまた、一人で下を向く時間あるいは時期が必要であるとも言える。その上で、明るい陽光の下で再び「上を向いて」歩き出したとき、新しい希望が見えてくるのではないか。下を向いてこそ、次に上を向いて、空を見上げる喜びがあるというものであろう。

もちろん、それを短絡的に結びつけて、現在の社会問題を語るつもりは毛頭ない。

東北の被災地から東京都内にも多くの人が来て、避難生活あるいは新たな生活を始めている。被災者のご苦労は今も絶えないと想像するが、皆で一緒に空を見上げ、笑顔になれる街というのは大切にしたい気がするのだ。

今の時代、学校を卒業しても希望通りに就職できない若者が多いという。少しばかり気の毒には思うが、そのぐらいで元気をなくしてはいけない。

浅草の街を、威勢よく走りぬける人力車のお兄さんたちがいる。男性ばかりでなく、なかには女性の引き手もいるので驚くのだが、これがなかなか、たくましくて格好よく、頼もしいのだ。

さあ、元気を出せ。「鉛より重い現在」などに負けるな。

そして、一人で下を向いたあとは、皆で大きな空を見上げよう。

三社祭の中日(なかび)、浅草の街は数十基の御輿であふれる(大紀元)

浅草の街をめぐる観光用人力車(大紀元)

(牧)