【大紀元日本7月6日】著者・韓瑞穂氏は1922年、東京生まれ。日本名は平山瑞穂。日本女子高等学院(現在の昭和女子大)を卒業して間もない21歳の時に、夫・韓向辰氏の帰国に同行し中国に渡る。1944年、昭和19年のことだった。
高学歴の日本女性が戦時中、それも敵対する国家の青年と国際結婚するというのは、当時とても勇気のいることだった。
韓向辰氏と付き合い始めた頃に、こんなエピソードがある。本文から引用させていただく。
「…二人で水道橋の駅に差し掛かった時だった。巡査に「おい、ちょっと来い」と、派出所の中に呼びこまれた。二人は別々の部屋で尋問を受けた。私を尋問したのは中年の巡査だった。「おい、あの男は支那人だぞ。日本人の男がいくらでもいるというのに、なんでお前は支那人なんかと付き合うんだ。けしからん」「なぜ支那人と付き合ってはいけないんですか」「お前はそれでも日本人か! 今わが国はあいつの国と戦争しているのだぞ。少しは恥を知れ!」巡査は顔色を変え、いきなり私に往復びんたを食らわせた…」
これが当時の世相なのだろうが、中国人青年と一緒に歩いていただけで巡査に往復びんたされるとは なんとも乱暴な話だ。そんな社会情勢の中で巡査に向かって自分の意見を堂々と言える瑞穂さんだからこそ、激動の時代に中国大陸に渡り、50年以上生き抜くことが出来たのだろう。のちに瑞穂さんは、軍医として働いていた時期、治療を受けに来た兵士たちから「很利害(ヘンリーハイ=気性が激しい)」というあだ名を頂戴するようになる。
さて、嫁いだ先の韓家は、もともとは河北省楽亭県左荘の大地主だったというだけあって裕福な家庭だった。しかし、44年の夏ころから韓家の不思議な現象に気付くようになる。夜になると、農民、商人、僧侶、尼僧、軍人など、およそ資産家の上流家庭にはふさわしくない風体の人たちがひそかに訪れてくるのだ。実は、夫の父・韓幼林は早い時期から共産党のシンパであり、韓家は共産党の地下連絡所となっていたのだ。そんな韓家に嫁いだ瑞穂さんの人生が平穏なはずがない。
その後の瑞穂さんは、共産党と国民党の対立が激化し北京を脱出。解放区に向かう途中で機銃掃射を浴び、死線で子供と生き別れる。その後、八路軍で見習い軍医となる。さらに三番目の子供を宿したまま南下行軍と過酷な運命をたどる。共産党を信じ、その活動に身を投じた瑞穂さんは、国民党軍に勝利した後、本性を見せ始めた共産党に失望する。早い時期から幹部の腐敗が始まっていたのだ。夫は政治闘争に巻き込まれ、山間部への下放を命じられる。さらには文化大革命に巻き込まれ、二度の天安門事件を経験する。
当時を生き抜いた人でなければ、この大変さはわからないと思う。
また、歴史の流れだけでなく、本書の登場人物たちを通して当時の中国社会をうかがい知ることが出来る。たとえば登場人物の一人、韓家の女中・宗燕華は極貧の農家の生まれで8歳の時に豆腐屋に「童養媳(トンヤンシー)」に出された。童養媳とは、将来相手先の嫁になるのを前提に、幼児の時にもらわれたり買われたりする女の子のことだ。この本が出版されなかったら童養媳に出された宗燕華さんのことを知る人はいないだろう。
歴史に名を残さぬ人たちの人生にも思いを馳せながら、本書を読み終えた。
大紀元の記事の中から童養媳に関するものをご紹介する。
http://www.epochtimes.jp/jp/2011/09/html/d50092.html
http://www.epochtimes.jp/jp/2009/11/html/d40712.html
書名 『異境』 私が生き抜いた中国
著者 韓瑞穂[著]
出版社 新潮社
価格 1,700円(税別)年 2000年3月
ISBN 978-4-10-435601-8
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