【大紀元日本7月19日】昨夏の猛暑が、思い起こされる。節電は結構だが、やはりあの暑さはつらい。なんとか扇風機でしのごうと家電店へ行くと、昨年は、突然の需要で扇風機が品切れになっていた。
朝顔やゴーヤなど、つる性の植物を窓辺に這わせる「緑のカーテン」は、夏の日よけに効果的だそうだ。確かに、見た目にも爽やかで涼しい。
その朝顔は、なぜか秋の季語に入れられている。夏はこれからが本番であり、季節感が大分ずれるが、7月といえばもう秋に当たるのだ。
暦の上では立秋すぎが秋ではないかとも思うのだが、まだ寒い1月を春と呼ぶように、暑い7月が区分上はもう秋だと言われれば、そうかなという気もしてくる。
朝顔といえば、『源氏物語』のなかに朝顔(あさがほ)の君という女性がでてくる。光源氏の父・桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君であるから、光源氏のいとこにあたる。この朝顔に、源氏は若いころから熱をあげた。
もっとも源氏の恋愛は、常に複数同時進行という形態であった。その是非を、今日の道徳観で見てはいけない。好きな女性は複数でありながら、一人ひとりの女性に対しては実に一途であったということで、源氏は、なんとなく許されてしまうのだ。それが当時の貴人の通常のことであったのか、いや、特殊であるからこそ紫式部が物語に描いたのかは分からない。おそらく、男女それぞれの観点から、両面あったと見るべきだろう。
朝顔の君は、高貴な身分の女性であり、光源氏の正妻候補にも上がった姫君だが、結局は源氏の求愛を拒み続け、また他の男性に嫁ぐこともなく、生涯独身のまま出家する。
もう一人、夕顔(ゆふがほ)という女性が登場する。こちらは高貴な身分ではなく、庶民が住むような巷間に隠れ住んでいた。
ある夏の夕暮れ、光源氏はふとしたことで夕顔の隠れ家に立ち寄る。実のところ、その隣の家に宿下がりしていた病気の乳母を見舞っただけなのだ。
そんな源氏が、卑しい家の庭先に咲く夕顔の花に目をとめる。随人に採りにいかせると、家のなかから、白い扇にしたためられた歌が送られてきた。
「心当てに、それかとぞ見る白露の、光そへたる夕顔の花」。女性から先に歌を送るという、当時の常識に全く反したこの場面について、これまで多くの現代語訳が、「娼婦性をもつ夕顔が、光源氏に誘いをかけてきた」などというような、とんでもない誤訳をしてきた。
あとで分かることだが、今でこそ身の危険を感じて隠れ住んでいる夕顔が、もとは三位の中将の姫君という、高貴な身分に属する女性だった。そのつつましやかで内気な夕顔が、当時の常識に反して、女性側から先に歌を送る理由があるとすれば、ただ一つ。
高貴な香りのする牛車のなかの人物(光源氏)を、かつて夕顔の庇護者であった頭の中将(とうのちゅうじょう)が自分を助けるため探しに来てくれたもの、と誤認したからなのだ。だから、「私はここにいますよ」ということを示すため、夕顔は自分の移り香のしみついた白い扇に、先の歌を書いて送ったのである。
源氏にしてみれば、「人違い」という不思議なきっかけで、興味深い女性に知り合えたものだという好奇心から、この後、夕顔のもとへ足繁く通うようになる。
と、『源氏』のあらすじを語り始めたら止まらなくなるので、話をもとに戻す。
今はただ、『源氏物語』に見られる植物の表象性の見事さについて、朝顔と夕顔を例として、お話したかったのだ。
高貴で凛とした姿の朝顔。ほの暗い庶民の庭に、隠れ咲く夕顔。その人物の個性を表現するのに、これ以上見事な配役はない。やはり紫式部は天才なのだろう。
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