【伝統を受け継ぐ】ガラス工芸「とんぼ玉」

【大紀元日本12月29日】「とんぼ玉」と聞いて「それって何?」と思うのは、記者一人ではないだろう。とんぼ玉というのは糸やひもを通す穴があいている、装飾を施したガラス玉のことで、外国では「グラスビーズ」と呼ばれることが多い。古くから世界中で、装身具や魔よけとして作られていたという。

古代メソポタミアやエジプトでは、紀元前15世紀ごろにはガラス製のとんぼ玉が作られており、ローマ時代になると精巧なモザイク玉や人面玉など、手の込んだものが作られていた。日本最古のガラス玉は勾玉(まがたま)で、ヒスイなどの貴石に代わるものとして、弥生時代中期ごろに作られるようになった。

現在につながる「とんぼ玉」のルーツといえば、江戸時代にさかのぼることになる。とんぼ玉という呼び方も江戸時代に始まり、日本独特の名称である。名の由来は諸説あるが、トンボの目に似ているから、というのが一般的なようだ。

江戸時代、日本は鎖国を続けていたが、わずかに日本との交易を許されていたオランダ船が長崎を窓口に異国の珍しい品々を運び込み、その中にオランダのグラスビーズがあった。その美しさに魅了された人々はそれを「オランダ玉」と呼んで珍重したという。

17世紀当時すでに、長崎ビードロなどのガラス製品を作っていた日本で、和製のグラスビーズが作られるようになるのに時間はかからなかった。東京、大阪、京都を中心に「オランダ玉」に勝るとも劣らない美しい玉を作るようになり、髪飾り、帯留め、根付け、緒締め、風鎮などとして用いた。日本産の「とんぼ玉」の誕生である。とくに大阪のとんぼ玉作りは盛んで大勢の職人を擁した。現在もなお大阪に「玉造(たまつくり)」という地名が残っているが、当時の名残である。

一時代を風靡したとんぼ玉であったが、その存在すら忘れられてしまったように見える現在、静かにまた復活していたのだ。ガラス工芸家・とんぼ玉作家、大鎌章弘さんをアトリエに訪ねて話を聞いた。大鎌さんは制作のかたわら「もっと多くの人にとんぼ玉の魅力を知ってほしい」と、とんぼ玉教室での指導や、日本各地で個展・グループ展などを精力的に開いている。

アメリカやヨーロッパでもワークショップの依頼があり、日本の「とんぼ玉」を紹介した。日本のとんぼ玉と外国の物の違いについて「技術的には変わらないのですが、外国の人は日本独特の色使いや、桜の花など日本的な模様に惹かれるようです」と語る。「アメリカのとんぼ玉は本当に自由で、これもとんぼ玉と言えるの?と思うぐらい自由に発想しています」。その自由さに学ぶところが多かったとも。

11月、神戸市の南京町ギャラリーで「大鎌章弘 ガラス展」が開かれた

大鎌章弘作 とんぼ玉 (写真・作者提供)

。2cm足らずの小さなガラス玉の一つ一つに花や昆虫などの自然のモチーフが凝縮されたもの、幾何学的な模様、透明なガラスに乳白色が流れるように溶け込んだマーブル模様など多彩で、どれも実に精巧で美しい。バーナーでガラス棒を溶かしながら作ったものとは思えない手の込んだ不思議の世界である。

大鎌さんの作品は、とんぼ玉以外にペーパーウェイトとグラスマーブルがある。直径7cmほどの透明ガラス球体のペーパーウェイト、中に様々なカラフルな花束が溶け込んでいる。そして、グラスマーブル、大鎌さんはこれを大きなビー玉と表現する。一つのグラスマーブルを覗くと、丸いはずの球の底部が宇宙のようにどこまでも果てしなく深く下に向かって伸びている。ガラス玉の中にファンタジーが広がる、遊び心たっぷりの作品が楽しい。

大鎌さんがとんぼ玉を作り始めたのは24歳の頃だった。師匠は父の康弘さんだ。と言っても、康弘さんがガラス工芸を職業としていたわけではなく、現代とんぼ玉作家の第一人者であった故・飯降喜三雄と親交があり、趣味の一つとして学んだという。「両親と祖父、家族全員が趣味でとんぼ玉づくりをしていましたが、私自身はサラリーマンをしていて、全然興味も関心もありませんでした」

そんな大鎌さんがとんぼ玉づくりを始めたきっかけは、スポーツ中の事故だった。「仕事より熱中していたサッカーをしているときに怪我をしたんです。動けないので1日中家にいるわけです。他にやることもないので、退屈しのぎに始めたのが今につながったんです」と笑った。それと気づかないうちに、大鎌さんを取り巻く状況が、彼をガラス工芸の方へ導いたようだ。そして、その才能が花開いたのだ。

大鎌章弘作 ペーパーウエイト (写真・作者提供)

大鎌章弘作 とんぼ玉 (写真・作者提供)

大鎌章弘作 とんぼ玉 (写真・作者提供)

大鎌章弘作 とんぼ玉 (写真・作者提供)

大鎌章弘作 とんぼ玉 (写真・作者提供)

大鎌章弘作 ペーパーウエイト (写真・作者提供)

(温)