【漢詩の楽しみ】 江南春(江南の春)

【大紀元日本3月17日】

千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中

千里、鶯(うぐいす)啼(な)いて、緑(みどり)紅に映ず。水村山郭(すいそんさんかく)酒旗の風。南朝、四百八十寺(しひゃくはっしんじ)。多少の楼台、煙雨の中(うち)。

詩に云う。広々とした野に鶯が鳴き渡り、木々の緑が、赤い花に映えている。水路をめぐらした村や、山ぞいの村のあちこちには、酒屋の旗が春風になびいている。一方、南朝以来の古刹が今も残る古都・金陵(南京)に目を転じれば、こちらも絶景。この煙雨のなかに、一体どれほど多くの楼台が立ち並んでいることだろう。

晩唐の詩人・杜牧(とぼく、803~853)の作。

詩歌は文学の一ジャンルであるが、この詩に限って言えば、文芸というより一幅の絵画といったほうが適切かもしれない。

もちろん絵画のなかの風景画に属する。物語を排除したその表現は、登場人物もなく、まして作者が顔を出すような嫌味もない、徹底した風景描写で貫かれている。

詩の前半は、晴天の下に広がる明るい農村風景。続く後半は、春雨の煙るなかに寺院の楼台が並ぶ幽玄の世界である。これは、一見すると統一性のない構成になっているが、「江南春」の題名の通り、江南の好季節のさまざまな風景というテーマを総括した詩であると解すれば矛盾は感じないであろう。

杜牧の時代から、さかのぼること約300年。江南の地には南朝と呼ばれる歴代王朝があった。国力は不安定だったが、貴族的な仏教文化が大いに栄えた。そのような南朝は、唐代の文人にとって憧れであったことも、この詩の空気のなかにある。

悲しいことに、このような美しい風景は、今の中国にはない。水も空気も限りなく清らかな天然の美から、現代の私たちはどれほど遠ざかってしまったことだろう。

連日伝えられる大気汚染のニュースに、漢詩好きとしては、ひときわ感傷的にならざるを得ない。

(聡)