過ちを改めた君主

【大紀元日本6月11日】中国の五代十国の時代では、小さい国々の間は紛争が止まなかった。どの君主も民衆の命を軽んじ、武力で支配した結果、どの国も長く続くことはなかった。しかしその中でも、後唐第2代皇帝の明宗・李宣は違った。彼は思いやりがあり、犯した過ちを徹底的に改める人物だった。

彼が皇帝になった翌年、天成三年(928年)の事だった。側近の一人はある日、「外に竹竿を武器にして戦いを練習している二人がいる。何かを企んでいるようだ」と彼に報告した。

明宗がすぐに二人を捕まえるように命じ、娘婿に対処するよう言い渡した。娘婿はろくに調べもせず、二人を処刑した。

翌日、ほかの側近は「昨日捕まえた二人は、戦いを練習していたのではなく、ただ子供が遊んでいただけだった」と明宗に伝えた。明宗は驚き、誤って人を殺してしまった事が判った。そこで彼は国中の人に、自分が刑罰を濫用した事について心から詫び、その証として自らの10日分の食事を減らした。娘婿は審理を疎かにしたとして、1ヶ月の俸給を取り上げられた。最初に通報した側近は善良な人を陥れ死亡させたとして、免職され、流刑に処された。明宗は子供二人の家に、大量の絹と食物を賜り、盛大な葬式を行った。

このような事が二度とないよう、明宗は全国の官吏に「処刑に該当する場合は必ず精査し、決して罪のない人を処刑してはいけない」と伝えた。

彼は当時には非常に珍しい、優しい君主だった。

 (翻訳編集・蘭因)