夏王朝の誕生に伴う徳政の建立
夏王朝の誕生
夏王朝は禹(う)が建てた古代の王朝である。紀元前2070年頃に興り、前1600年頃に殷(商)に滅ぼされた。始祖の禹は顓頊の孫であり、姓は娰(じ)という。禹は、父の鯀(こん)の後、たびたび氾濫して民を苦しめていた大洪水をおさめた功績により、帝舜から帝位を禅譲された。
禹の死後、天下を益に授けたが、三年の喪が終わると、益は帝位を禹の子の啓にゆずった。啓が即位して以降、その子孫が代々王位を継ぎ、中国史上初の世襲王朝が始まった。それは、14世17代続いた。
帝孔甲の代から夏后氏の徳が衰え、諸侯が背くようになった。桀にいたっては徳をおさめることに務めず、百官を傷害し暴虐であった。そのため、天下の信を失い、諸侯があいついで離反し、ついに殷の湯王によって滅ぼされた。
現段階では、殷(商)の甲骨文のような夏王朝の実在を証明できる確実な史料は存在しない。しかし、河南省西部から山西省南部にかけての地域において、夏王朝にかかわる伝承が多く存在し、河南省登封市の王城崗遺跡など、夏王朝のものと思われる遺跡も発見されている。より注目されるのは、河南省偃師市で発見された二里頭遺跡および二里頭文化である。二里頭文化の分布域は夏王朝にかかわる伝承とほぼ一致し、紀元前21世紀頃から前17世紀頃にかけて存在したものであるので、この二里頭文化は夏王朝のものと見なされている。
すでに読解された甲骨文の中には夏という文字がない。季節にかかわる文字には冬もなく、ただ春と秋だけである。当時は、一年を四季に分けず、ただ春と秋の二季に分けていたようである。その影響を受けたのか、先秦時代の編年史はつねに<春秋>をもって歴史を表すのである。
夏以前はいわゆる伝説上の三皇五帝の時代である。それらの文化的特性は、社会的要素が少なく、半神半人的な混沌たる状況が目立っている。一方、夏王朝にいたると、社会的要素が増えていくとともに、半神半人という文化現象も次第に減り、人間は漸次に神性的から人性的へと移り変わっていったのである。
禹の治水などの功績およびその聖徳
司馬遷『史記』夏本紀によると、禹の父の鯀は洪水を治める官員として薦められたが、帝堯は彼が御上の命にそむき、一族と和せず仲間をそこなうような人物であるとして、彼を退けた。しかし、臣下たちは彼よりも賢明な人物はいないと考え、チャンスを与えるよう願い出た。帝堯は大臣の意見を聞き入れ、鯀に治水にあたらせた。
しかし、九年たっても洪水はやまず、何の成果もあらわれなかった。かくて、帝堯はさらに人物を求めて舜をえた。登用された舜は天子の政事を摂行した。舜は天下を巡幸して、鯀の治水が実状にそぐわず、何の成果もあげていないことを見てとると、鯀を羽山(東方の辺境の山)に押し込めて死にいたらしめた。そして、鯀の事業を継続させて、舜は鯀の子の禹を起用することにした。
堯が崩じ、帝になった舜は、堯の事業を成就し、うるわしくするものがあれば、官職につけようと臣下に言った。
それで、臣下たちは、伯禹を司空(土地・民事をつかさどる官)にするようすすめた。堯も同感だといって、禹に水土をたいらげよ、心して努力せよと命じた。
禹の人となりは、敏捷で勤勉、徳がそなわっていて道に違わず、その仁慈の心は親しみやすく、その言葉は信頼できた。彼の音声は韻律にかない、進退は法度に合い、言動はつねに適切であった。そして倦まれず弛まず、また和やかで、世の中の綱紀として人々の仰ぐところであった。
禹は、帝の命を奉じ、諸侯・百官に命じて人夫を徴集し、水土を治め、山々をめぐって木柱をたてて山名を表記し、高山と大川の格式を定めた。彼は身を労し、心を集中して治水にあたり、屋外におけること十三年、自家の門前を通りかかっても入って休息することはなかった。衣食を薄くして鬼神への供物を豊富にし、家屋を質素なものにして、その費用を田畑の整備にまわした。
禹は準(みずもり)と縄(すみなわ)を左手に、規(ぶんまわし)と矩(さしがね)を右手に持って、四時にかなうように作業をすすめた。このようにして、九州を開拓し、全土にわたって道路を通じ、沢に堤防をつくったうえ、稲を植えさせたり養蚕をいとなむようにしたりして、多くの事業を成就した。
禹の努力により、九州はひとしく収まった。洪水が治まり、交通が便利になり、人々の生活も安定し、万国が治まった。そして、より合理的な賦租を定め、金、木、水、火、土、穀の六者はきわめて順調に生産されるようになった。
禹はまた、帝を助けて、五服(甸服・侯服・綏服・要服・荒服)を制定して五千里四方の地に教化がおよぶようにし、州ごとに十二の諸侯をたてて師長とし、九州の外の蛮族の地では東西南北の方面ごとに五人の長をたてて、みな帝の権威に服して成果を上げるようにすることができた。
天子は禹の功労を嘉して臣下たちに土地を賜って諸侯に封じ、その土地にちなんで姓を賜った。「わが徳をつつしんで天下に臨めば、天下の民はわがおこないに違うものはない」と感懐をのべた。
禹は朝廷に出御したとき、帝に「天子としてのあるべき姿、すなわち至善に安んじて、決して妄動しないよう」と献言した。帝は「ああ、賢臣とは貴重なものだ!それはわが股肱・耳目だ」と感心していった。
帝はさらにいった。「わたしは民をたすけて安らかに生活できるようにしてやりたい。そなたはそれを補佐せよ。わたしは古人の象服(しょうふく・かざりのある法度の服)や日月星辰をよく観察して現代のぬいとりや服の色を制定したい。そなたはこれについて調査して明らかにせよ。わたしは現在の六律(音楽で用いられる六律六呂という12音の中の陽とされる6種類の標準的な高さの音。黄鐘・大蔟・姑洗・蕤賓・夷則・無射)、五声(音楽の五つの音色で、音を清濁・高低によって分類されたもの。宮・商・角・徴・羽)、八音(八種の楽器。金(鐘)・石(磬)・糸(絃)・竹(管)・匏(笙)・土(壎)・革(鼓)・木(柷敔))を聞いて、政治が熱心に行われているかどうかを判断し、そして仁・義・礼・智・信の五徳を天下にしきたいと思う。そなたはよく天下の音楽を聴きわけよ。わたしも正道をはずれたら、そなたは正したすけよ」と命じた。
帝はさらに「天下がわが徳にしたがったのは、そなたの功績である。そなたはその秩序をたてたからである」といった。
臣の皋陶は禹の徳をうやまい、民がみな禹を手本とするように命令した。このようにして、禹の徳は大いに明らかになった。
禹は聖徳をもって善政を行う
禹の諸々の功績を鑑みて、帝舜は禹を天に推薦して後嗣にした。十七年後、帝舜は崩じた。三年の喪が終わると、禹は舜の子の商均に遠慮して、朝を辞し、陽城(山西省)にしりぞいた。ところが、天下の諸侯もみな商均のもとを立ち去って、禹のもとに入朝した。やむをえず、禹はついに帝の位につき、国号を夏后(かこう)にあらためた。
禹は即位後、武器の生産をしばらくの間とりやめ、人民を苦しませないように、宮殿の増築は先送りし、関所や交易にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政の簡略化をはかった。
禹のすぐれた政治と威徳により、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになったのである。
『史記』夏本紀によると、禹は諸侯を江南の地に会同し、諸侯の功績を計算して崩じた。よってその地に葬って地名を会稽とした。会稽とは会計のこと、すなわち諸侯を会してその功労を計ったという意味であるという。
禹はかつて帝舜に進言し、帝の任務の重大さを自覚して政務に精励することや、徳こそ政治を善くするものであり、その政治とは人民を養うことを目的としていることなどを強調した。したがって、『書経』大禹謨は、「禹は古の道にしたがい、それをもとに考えて謀を立てたものである」と評する。
禹の聖徳と優れた功業により、歴代でも高く評価され、「三聖」(「三聖」は、「伏羲・文王・孔子」、「堯・舜・禹」、「禹・周公・孔子」など諸説ある)の一人と仰がれている。
先王たちの功績にふれて、孔子は「高々とそびえる山のようだ、舜と禹が天下を掌握しながらも手を下さなかった(自然な統治の)ありさまは)」(『論語』泰伯篇)と感歎する。禹の評価について聞かれると、孔子は「禹王はわたしには一点の非の打ち所もない。自分の飲食は簡素にして先祖や神々の奉祀は立派に行ない、自分の衣服は粗末なものにして祭礼の衣冠は十分美しく、自分の宮殿はみすぼらしいものにして治水や灌漑に尽力した。禹王はわたしには一点の非の打ち所もないのだ」(『論語』泰伯篇)と高く評価する。
孔子は、聖徳があり、自らの実践を通じて、仁・義・礼・智・信を人間の道徳の規範に成し遂げた堯、舜、禹などを「先王」と尊称し、彼らが自ら進めた道を「先王の道」とし、後世帝王の手本であるとしている。
(文・孫樹林)