中国伝統文化百景(23)

天道の探究と礼法の建立

周の文王と「後天八卦」

殷の三公の一人、西伯昌(前1152~ 前1056)は善徳があり、仁政を行ない、かつ殷の法度をあらため、正朔(暦)を設定したなどの功績により、大臣から民まで尊敬されていた。しかし、西伯昌が善徳を積み重ね、諸侯の心がみな彼に向かっているので、暴虐な紂王は彼を羑里に幽閉した。

『史記』周本紀によると、羑里に囚えられている間、西伯昌は易の八卦を増して六十四卦にしたという。

『史記集解』が引く『帝王世紀』によると、西伯昌の長男の伯邑考は人質にとられ、紂に煮殺され、その肉を刻まれたという。紂はその汁を賜り、西伯昌はそれを飲食したという。

西伯昌は「八卦」に長じていると評判だった。紂は彼の占う能力を測るためにそのことを行ったが、西伯昌はその汁を飲食しながら、何気なくうまいと言った。この報告を受けて、紂は笑った。みな昌は予測もできる奇才といっているが、このことから見れば、彼はただの凡人ではないかと言って、安心した。これは、西伯昌が釈放された重大な理由だったという。

幽閉されていた七年間、西伯昌は臥薪嘗胆の思いで、ひそかに「八卦」の研鑽に励んでいた。彼は、伏羲の「先天八卦」に基づいて、「八卦」を宇宙を構成する八種類の基本要素(物資)に派生させ、それをもって無限なる事象を推断、演繹するようにしたのである。これを通常、「後天八卦」という。

概して言えば、「先天八卦」は理論的、抽象的なものであり、「後天八卦」は実用的、具象的なものであり、「先天八卦」は宇宙や生命の本質を抽象し、「後天八卦」は宇宙万物の流動的な関係などを表すものである。西伯昌の努力により、「八卦」は抽象から具体へ、理論から実用へと進歩をなし遂げ、中国文化思想史における影響と意義はきわめて大きい。

『易経』上経に、「天の運行は健やかである。君子は、これに則って、自ら彊(つと)めはげんで息(や)むときがないのである」という理念が、中国文化思想に長くて深い影響を与えてきたが、その精神は文王の時代および彼の努力からも見られている。

西伯昌が死んだ後、次子の武王が父西伯昌の積み重ねてきた人望や善徳を基盤として殷を倒し、周王朝をたてた。武王は、周王朝の建立に多大な貢献があった父の西伯昌に対し、文王と追号した。文王の善徳と功績により、後世、儒家からは為政者の手本として、文王を武王と並んで崇められている。

周公旦と『周礼』―周の政治制度と礼法制度

中国文化思想史、とりわけ先秦時代における「礼」は、一般的に、作法や儀礼という狭義的なものではなく、むしろそれらの意義を含む多義的、広範的な概念であり、慣例、規範、示範、制度といった範疇を概括するものである。

『史記』五帝本紀によれば、舜が堯の命令に応じて天子の政を摂行し、政治の体制を整え、吉・凶・軍・賓・嘉の「五礼」を定めた。しかし、五帝の時代はなお半神文化の状態にあるため、その礼楽の多くも神性と人性をともに備えたものであり、いわば礼楽の萌芽期であった。夏・商・周の時代、とくに周の時代に入ってからまともな礼楽の文化がしだいに形成されていった。

周王朝が誕生した後、文王の子で武王の弟の周公旦(名は旦、周公は号)は上古時代から殷(商)までの礼楽を大規模に整理、改造し、周にあった実用的な礼楽制度を体系的につくった。周公旦は「礼」の範疇を官制、祭祀、起居などの社会生活のあらゆる面に及ぼし、それを系統化した社会の章典制度と行動の規範として全国で礼楽の治を実行させた。

周の儀礼に関してさまざまな説があるが、周公旦は儀礼の制度を定め、礼学の基礎を築き、『周礼』『儀礼』を著したとされる。

『周礼』(しゅらい)は、『周官』ともいう。周公旦が著わした書とされるが、他の古典に周代の制度として記されているものとかなりの差異があるために、『周礼』は周公旦の作ではなく、戦国時代にまとめられたものと思われる。

『周礼』は官制をもって治国の方策を述べる著作であるが、その内容は非常に豊富であり、社会生活のあらゆる面にも及んでいる。祭祀や封国などの国家大典もあるし、車騎や服装などの規範もある。その趣旨は、周の礼を定めることによって、理想の国家作りの法典のようなものを示し、人が天に法ることによって天人合一というあるべき境地に至ろうとするものであろう。

『周礼』は『儀礼』『礼記』とともに「三礼」とされ、中国古代の礼楽文化を知り、礼法や礼儀などについて権威的な記載と解釈として歴代の礼制に深い影響を与えた。後に、儒家が重視する経書の一つとなった。

商、周の時代は「礼儀三百、威儀三千」といわれ、さまざまな典礼があり、専門の教育を受けかつその儀式に慣れた者でなければ行ないがたいという。

『論語』顔淵に、礼についての顔淵と孔子の対話がある。顔淵に「仁」を問われると、孔子はこう答える。「己を克(せ)めて礼に復るを仁と為す」、そして「一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。」

顔淵がさらに仁徳の具体的な実践項目について伺うと、孔子は、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。」と諭す。

いわば、儒学の中心は仁であるが、仁の達成には礼がそれの大前提でかつ必須不可欠ということである。

孔子は、周公旦の時代から約500年後の春秋時代に魯に生まれた。当時は伝統的な礼制がだいぶ崩れた。したがって、畢生君子の正道を求める孔子にとって、公旦の唱えた伝統的な礼制を受け継ぐべく、周王朝の礼楽を集大成した周公旦はまさに尊崇すべき聖人なのである。孔子は後に、儒学の一門を創出したが、その背景には周公旦らの先哲たちによって創られた伝統文化思想による影響がきわめて大きいことは言うまでもない。

(孫樹林)