鄧小平が「六四天安門事件」で無差別殺害におよんだわけ
1989年6月4日に中国北京で発生した、「六四天安門事件」から28年。民主化を求める学生と一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍を動員しての無差別発砲や、戦車で轢死させるといった残忍な手段により徹底的な弾圧を加えたのは、当時の最高権力者、鄧小平だった。時代の波から沸き起こった大規模な民主化運動を、かくも強硬な姿勢で弾圧した鄧小平の動機は、いったい何だったのだろうか。
今年2月、中国国内のネットサイト「中国報道」に鄧小平の息子、鄧樸方に関する長文が掲載された。「邓朴方是如何成为“先富起来的一部分人”的?(鄧樸方はどうやって『先に豊かになった人』になったか?)」と銘打ったこの記事では、鄧小平の長男・鄧樸方を筆頭とする鄧ファミリーの行ってきた不正蓄財の実態を明らかにしている。
「先に豊か」とは何か?
記事タイトルにある「先に豊かになる」とは、単純にいえば、特権のある党幹部の子弟が公共財産を私物化することだ。当時、党幹部子弟の中でもトップ位置にいたのが、鄧小平の息子、鄧樸方だった。
83年、鄧小平の意向を受けて、中国当局が国庫から引き出した2600万元もの巨額の資金が、「中国障碍者福祉財団」と「中国身体障碍者リハビリセンター」の活動資金の名目で、自身も文化大革命で下半身麻痺という障碍を負っている鄧樸方に渡された。
これ以降、鄧樸方はこうした「チャリティ団体」の名前で国内外から大々的な寄付を募り、85年から康華公司(のちの中国康華実業有限公司)を始めとする、不正蓄財を行うための兄弟会社6社を次々と設立した。その後、それらの子会社58社を起こし、さらに113社の孫会社も設立した。
80年代、中国経済改革初期に、計画経済から市場経済への過渡期に「二重価格制」を施行した。つまり、同一商品に計画経済指標で国が決められた固定価格と市場需給関係による調整のできる自由価格という二重の価格がある。特権のある官僚やその親族がこの価格の二重性を利用して、重要物資を独自の人脈ルートで低価格で仕入れ込み、市場で高価格で転売し、不正に利益を得ることを「官倒」と名付けられた。
海外から送られる寄付金や大量の禁制品の転売を通じて、鄧樸方は瞬く間に177社もの「官倒」会社のオーナーとなり、政府や軍の高官やその親族を会社役員に据え、豊富な特権と人脈と国家権力を基盤に、国有財産を私物にして一般企業ではとてもできないような大口の国際間取引を行い、利益を貪った。
鄧樸方は慈善活動のための資金調達という名目を自由に使って、中国が輸出入を禁止しているあらゆる物品を好きに輸出入することができた。いかなる法律法規も、鄧樸方の前では存在しないに等しかった。慈善家たちが提供した寄付金の総額はいくらだったのか。その寄付金は結局どこに消えたのか。これらはみな「国家機密」だ。鄧樸方本人以外、誰にも分からない。
国家のトップが不正蓄財の一家
鄧小平には鄧樸方の他にも子供や娘婿がいたが、彼らもまたいずれ劣らぬ不正蓄財の「名手」だったため、各々がビジネス界のトップに駆け上った。鄧小平の「先に豊かになれる者から豊かになる」の掛け声のもと、鄧の家族からその一族の遠い親類縁者までもが我先にとその恩恵にあずかった。その結果、彼らは中国でもほんの一握りのトップクラスの富裕層にのし上がった。
ところが、89年に起きた学生運動で、学生らが腐敗に手を染める官僚らに真っ向から反対した。学生と民衆の重要な訴求の1つ「打倒官倒」が、鄧ファミリーの不正蓄財に直接的な影響を及ぼした。これを見た鄧小平が、鄧樸方らを民主化の嵐から守るために、丸腰の学生や市民を容赦なく弾圧したというのが「六四天安門事件」の真相だ。権力と既得権益、そして汚職の温床を守ることが、鄧小平に無辜の市民らへの無差別な殺戮を行わせるに至った最初の動機だった。
鄧小平の望んだとおり、六四天安門事件以降、中国全土の政府組織に腐敗がまたたく間に広がった。最高指導者、政治局常委、政治局委員、中小省市の幹部から県や村クラスの幹部まで、その権力をフルに活用して不正蓄財にいとまがない。そうして手に入れた巨額の金は海外へと流出しているが、こうした事実は国際ジャーナリスト連盟(IFJ)の報告書や、パナマの法律事務所モサック・フォンセカ(Mossack Fonseca)から流出した機密文書「パナマ文書」といった形で明るみに出て、国際社会を驚かせている。
全土に広がった中国の腐敗は、鄧小平が学生運動を弾圧する根本的な理由であっただけでなく、六四天安門での殺戮という悲惨な結果に導いた。
六四天安門事件の起きた経緯をごく簡単に言えば、このようになるだろう。「鄧小平は独裁へ、学生は民主化へ。鄧小平は腐敗へ、学生は権力監督へ。その結果、学生たちに向けて銃口が火を吹いた」。
(翻訳編集・島津彰浩)