中国春秋時代の呉国、つまり現在の江蘇省一帯はかつて神秘的な雰囲気が漂う土地でした。当時は辺境だったものの「孫子の兵法」の誕生の地として神に選ばれました。有名な呉越の争いはここで起きたのです。
兵法がここに生まれたこともあって、この地の特産品も戦争と関わりが深いものです。呉国の優れた兵器といえば、当時の春秋時代では広く知られていました。古歌「徐人歌」の歌詞からもそのことが分かるほどです。
歌の中で 延陵を封土として授かった呉国の王子、季札は自分の約束を忘れてはいませんでした。季札は呉国の第19代目の君主の末っ子で、 「季」には「末」の意味があります。
ある日、季札が魯国を訪問する途中に付庸国の徐国を通ることになりました。宗主国の王子が来るので、徐国の君主は大いに歓迎し、もてなしました。
季札の滞在中、徐国の君主は彼の持ち物に興味を持ち始めました。それは季札の腰につけている宝剣でした。彼の宝剣のどの部分が徐国の君主を魅了したかは今では知るすべもありません。しかし、呉国の刀鍛冶の技術は近代発掘された文物の中から垣間見ることができます。呉王夫差剣や呉王光剣などなど、二千年経って出土しても、依然として光り輝いています。
季札の今回の外遊は国事なので、身につけた宝剣を贈ることはできません。また、春秋戦国時代の貴族の決まりでは、貴族は外出する際、宝剣を身に付けなければいけませんでした。そうしないと、女性が顔も洗わず、ボサボサの髪のまま外出し、スリッパで宴に参加するような無礼な事と見なされます。季札はいろいろ考え、 帰国の時に宝剣を君主に贈ることにしました。ただ、季札はこのことを君主には言いませんでした。
一年後、季札は外遊から帰国することになりました。しかし、徐国の君主はすでに亡くなっていました。それでも季札は宝剣を君主に贈ることにしました。
「前回、徐国を訪問した時、君主の表情からこの宝剣を気に入ったことが伺えました。私は旅を続けなければならなかったので、当時、宝剣を彼に贈ることはできなかったのです。しかし、その時に私は彼に宝剣を贈ることに決めたので、彼が亡くなったからと言って、自分の約束を反故にすることはできません」
季札は腰に下げた宝剣を下ろして、徐国の君主の墓前の樹にかけて去りました。さて、それで季札の宝剣を君主に贈ったことになるのでしょうか?贈ったことになるのです。
古人は人間が亡くなるのはその肉体だけだと考えていました。宝剣を贈ることを季札が心に決めたその瞬間、徐国の君主はすでにこの宝剣を受け取ったのです。心に一念が生じた時、天地がそれを感知します。
天地さえ感知したのですから、天地の中にいる徐国の君主も知らないわけがありません。
※新唐人より転載
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