魚も沈むほどの美女 西施
「沈魚落雁,閉月羞花」。これは、中国で美人を形容するのに使われることわざですが、元々は中国古代の四大美人である西施(せいし)、王昭君、貂蝉(ちょうせん)、楊貴妃を指したものであり、そのうち「沈魚」とは西施のことです。
親との関係が緊張している時は、どうすればいい?
現実の生活において、多くの人々は親に対して不満や怨みを抱いています。これらの怨みはさまざまな理由から生じ、親との関係を阻害するものとなっています。伝統的な文化において、これらの問題はどのように扱われるのでしょうか?
「顰みに倣う」(ひそみにならう)【1分で読める故事成語】
「顰みに倣う」の出典は『荘子』です。著者の荘子は道教の始祖の一人とされ、実は、『荘子』の中のすべての作品が荘子のものではなく、多くはその弟子や道教の者たちの作品です。
中国建築上の十の奇跡(七) ―京杭大運河
古代中国では、水路が経済発展と文化交流の重要な経路と保証であったため、人々は早くも春秋時代の末年に運河の建設を始めました。長い歴史の中で、運河は何度も改修されたり、補強されたりなど、ようやく南北の五つの主要な水路を繋げました。中でも、僅かに長江の長さに次ぐ京杭大運河は世界の水運史の前例を開きました。
質素な宰相
春秋時代、魯の国(現在の山東省)に李文子(り・ぶんし)という宰相がいました。李文子の家は非常に裕福でしたが、当時の高官としてはめずらしくその暮らしは質素なものでした。
晏子の救済
春秋時代の斎国の話である。ある年、この国は17日間の豪雨に見舞われた。氾濫した川が農作物や家屋をなぎ倒し、民衆は途方に暮れていた。斎の宰相・晏子(あんし)は斎国の君主である斎景公へ窮状を知らせ、食糧を民衆に提供するよう伝えた。しかし、それに対して斎景公は、人を派遣して全国を回らせ、歌と踊りのできる美女を求めた。遺憾に思った晏子はため息をつき、自宅にあるすべての食料と皿を家の前に並べ、被災者たちの救済にあたった。
心に決めた約束を守る王子
中国春秋時代の呉国、つまり現在の江蘇省一帯はかつて神秘的な雰囲気が漂う土地でした。当時は辺境だったものの「孫子の兵法」の誕生の地として神に選ばれました。有名な呉越の争いはここで起きたのです。
渡河の遅れが良縁を結ぶ
春秋時代の一国、晋(しん、紀元前11世紀 – 紀元前376年)に度胸と優れた見識を持った娘がいた。彼女は娟といい、河津吏(河の渡し場役人)の娘であった。娟は父の命を救ったばかりでなく、晋国趙家の当主趙簡子との素晴らしい縁組が結ばれた。
なぜ孔子は弟子の「道徳的な行い」を間違いだと指摘したのか
春秋時代を生きた中国の大思想家・孔子には数千人の学生がいたと伝えられているが、中でも有名だったのは子貢と子路だった。子貢は魯の国(現在の山東省南部)の商人で、常に諸国を渡り歩いていた。一方の子路は勇猛果敢で武勇に長けた人物だった。
孫子兵法「将、外にあっては、君命も奉ぜざるあり」
紀元前500年前、中国の春秋時代の軍事家・孫子が残した『兵法』に記されている「将在外,君命有所不受」。これは実際に孫子が呉王の命令に背いて、呉王の二人の妃を殺した時に言った言葉でした。なぜ孫子は王の命令に背いてまで妃を殺したのでしょうか? また愛する妃を殺された王をどのように納得させたのでしょうか?
古希を迎えた老萊子(ろうらいし)
「百善は孝を先となす」。中国の伝統文化において親孝行は重要な要素のひとつ。それにまつわる70歳の古老の逸話があります。
中国大工の開祖・魯班 子どもへの教育法
春秋時代末期(紀元前507年)の著名の工匠・公輸班(公輸が苗字)は魯という国の人で、魯班とも称される。専門家の研究によると、魯班は孔子よりは年下になり、墨子よりは年長になるという。魯班は子供の教育に道理や礼節を重んじ、忍耐強く適切な時機を待って子供に教える。厳しくするべき時は、彼は少しも手を緩めず教育したため、良い結果を収めることができた。