周処の更生
晋の時代、周処は現江蘇省宜興県太守・周魴の息子として生まれた。幼い頃から乱暴な性格で、好き放題に振り舞い、周囲から敬遠されていた。
月日が経ち、自分が嫌われていることを知った周処は、心を改めようと考えた。ある日、彼は憂いに満ちた表情をする村の人々に「今や年々豊作で、天下泰平であるにもかかわらず、何故みんなは沈んだ顔をしているのか?」と尋ねた。
一人の古老が答えた。「この地には未だに3つの害が取り除かれていない。それ故、心が晴れないのじゃ」。周処はその三つの害とは何かと聞いた。古老は、「その一は、南山を徘徊する凶暴な白額虎。その二は、長橋下の川に潜んでいて人畜に危害を加える蛟(みずち)。そして、その三は……それはあなたである」と躊躇しながら言った。
周処は暫く黙り込むと、「この三つの害を全部俺が片付けてやる!」ときっぱりと言った。
周処は一人で山に入り、白額虎を殺し、川に潜り三日三晩闘った末、蛟に止めを刺した。三日経っても周処が戻ってこなかったので、村人は三つの害が共になくなったと喜び、祝いの宴を開いた。
ちょうどこの時に帰ってきた周処は、村人が祝宴を開いているのを目にした。彼は自分がどれほど嫌厭されていたのかを痛感し、確固として更生の道を歩むことを決心した。
周処は才学兼備の陸雲氏を訪ねて経緯を話し、「私は改心したいのですが、歳を取っています。まだ間に合うのでしょうか?」と助言を求めた。
陸雲は、「朝、道を聞けば、夜に死んでも惜しくはないという古人の言葉があります。固い意志を持って志した目標に一生懸命努力し続ければ、前途に希望があります」と答えた。周処は陸雲の話に勇気付けられ、それから学問に励み、身を修め、品性を養った。僅か一年で声望まで得て、官職につき三十余年勤めた。
周処は朝廷に忠実に仕え、任期中多くの業績を残したが、外敵征伐中に戦死した。
「周処(しゅう しょ)の更生」は中国の歴史物語の中でも、非常に有名な話である。
(翻訳編集・潤)