唐文化が日本文化にもたらしたもの(上) 

唐の太宗の時代は、中国史上、屈指の盛世時期だとされ、中国は文武ともに天下を垂範していた。その文化、儀式、法規範、文物はすべて近隣諸国に取り入れられ、 都・長安は、世界各国からの使者、留学生僧侶が集まる国際都市となった。

唐を模範とし大化の改新

645年(貞観20年)、日本は遣唐使の提案を受け入れ、「大化の改新」を行った。「大化の改新」は、大唐を模範とし、唐の律令を手本とし、日本の旧習と政治経済を改革し、政体を完備したのである。

653年から16年のうち6回遣唐使を出し(うち1回は遭難)、盛唐の文化を学んだ。その後250年間に、計19回の遣唐使を派遣した。奈良時代の隆盛期に派遣された使節団は最大規模で、毎回500ほどであった。日本の多くの学生、僧侶、建築家、織物職人などは、使節団に同行して中国に行き、経典を修め、文物や図書館などを見学した。

盛唐文化を浴びる

盛唐の豊かな文化的雰囲気は、日本の留学生や僧侶によって日本に持ち帰られ、中国の『詩経』、『文選』、『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』などの漢文典籍が日本に伝わり、日本の和歌の創作に直接影響を及ぼした。 日本最古の漢詩集である『懐風藻(かいふうそう)』は751年に編纂され、64人の詩人の作品が収録されている。 これらの詩は、六朝や唐の詩風を模したものが多く、月、梅、菊、雪、酒を詠んだり、仏教や道教の修煉文化を洞察したりするものである。

日本最初の法律である「大宝律令(たいほうりつりょう)」は、唐の法律を模倣して書かれたもので、日本人留学生の吉備真備は、遣唐使を2度務め、長安の鴻臚寺で唐の天文暦、兵学、建築、法律などを研究し、その造詣も深かった。 

735年に帰国した吉備真備は、大王(おおきみ)に『唐礼』、『楽書要録』、『東観漢記』、天文暦書など200巻近くの書籍を献上したほか、日時計、中国楽器などの器物も献上した。このうち『楽書要録』は中国ではすでに失われているが、幸い日本では完全に保存されている。

吉備真備は漢字の楷偏をまねて日本のカタカナを発明したという説があるが、この仮名の発明により、漢字と日本語の結合のため、中国の古典や歴史、天文、医学、芸術などの書籍が、迅速かつ広く日本の民間に普及されるようになった。

空海は漢学の素養を身につけ、漢詩に関する日本初の理論書『文鏡秘府論』を編纂し、漢・魏・隋・唐の文学作品を研究し、詩歌の典籍について批評を集め、自分の文体を鏡で見るように点検し、是非・功罪を追究して後世の参考に残した。また、中国の書道を日本に伝え、平安時代の書道界の三大家の一人となった。

(翻訳 源正悟)