【古典の味わい】貞観政要 11
貞観の初年の頃、太宗が侍臣に向かってこう言われた。「君主としての道は、まず人民が安心して生きられるようにすることだ。もしも、重税を課すなどして人民を苦しめ、君主が贅沢三昧をするならば、それは自分の足の肉を喰って自分の
唐文化が日本文化にもたらしたもの(上)
唐の太宗の時代は、中国史上、屈指の盛世時期だとされ、中国は文武ともに天下を垂範していた。その文化、儀式、法規範、文物はすべて近隣諸国に取り入れられ、 都・長安は、世界各国からの使者、留学生、僧侶が集まる国際都市となった。
「未来を予知できた人物」高人・李淳風の超能力
中華世界の伝統文化は、古来より神伝文化と呼ばれてきました。その神伝文化のなかで営まれた歴代王朝には、いくつもの超常現象があらわれています。
三千年の歴史を越えて「人はなぜ、お酢を摂るのか」
今回は「お酢」のお話です。
現代中国語に「吃醋(喫醋)」という言葉があります。字義だけを見ると「酢を食する」なのですが、中国語のなかでは「嫉妬する。やきもちを焼く」の意味で使われることがほとんどです。
【古典の味わい】貞観政要 10
太宗も、おん自ら祭壇の前で哭し、死者への哀悼を尽くした。
【古典の味わい】貞観政要 9
太宗は医者に「この者を治療せよ」と命じた。
【古典の味わい】貞観政要 8
朕は今日、張公謹の死を聞いて、心の底から悲しんでいる。
【古典の味わい】貞観政要 7
天はまさに、朕を叱責してほしい。人民に何の罪があって、ひどい困窮に遭わねばならないのか。
【古典の味わい】貞観政要 6
朕は、そのようにはしない。今ある宮女たちを、それぞれ求めるところへ嫁がせてやろう。
【古典の味わい】貞観政要 5
陛下。そもそも帝王たる人物は、内側に神明なる心を持ちますが、外に向けては奥ゆかしく、寡黙で、何も言わないのです。
【古典の味わい】貞観政要 4
太宗が、学者の孔頴達に問うた。
【古典の味わい】貞観政要 3
太宗のその言葉を受けて、側近の魏徴が、太宗にこう申し上げた。
【古典の味わい】貞観政要 1
中国に貞観(じょうがん)という年号の時代がありました。
【古典の味わい】貞観政要 2
貞観2年、太宗は左右に侍する臣下に向かい、こう申された。
恨みに報いるに徳を以ってす
唐の時代、太宗が皇帝だったころのお話です。宦官の魚朝恩(ぎょ ・ちょうおん)は、輝かしい戦績を持つ武将・郭子儀(かく・ しぎ)に嫉妬していました。魚氏は郭氏の悪口を言いふらし、ついには郭氏の先祖の墓を掘り返してしまいました。
『西遊記』の三蔵法師
唐の時代は、隆盛し、武力にも優れ、宗教も共存し、芸術と科学が花開いた時期でした。よく中国の黄金期とされています。『西遊記』の取経の旅は、1300年前、唐の時代に長安の都から三蔵法師が旅立つときの話です。
唐太宗 無知であることを知ることの大切さ
中国の唐の時代は中国史上でも最も栄えた時代の一つである。中国史上、屈指の名君として名高い唐太宗は為政者として自らを厳しく律して政治にあたり、太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ中国史上最も良く国内が治まった時代とされている。
明君と暗君の違い
唐太宗の治世は中国史上でも最も栄えた時代の一つで「貞観の治」と呼ばれ、後世の賢帝と呼ばれた皇帝たちも政治のお手本とした時代であった。『貞観政要』は唐太宗と太宗を補佐した名臣との政治問答集で、日本では徳川家康が非常に愛好していたのをはじめ、数々の為政者が『貞観政要』から為政者たるものどうあるべきかを学んだ。
六世代にわたる報い
昔の人は「徳」について、よく言及していました。「徳」とは善行を積み、辛いことに耐えること。徳を積めば善果を得られ、悪行を積めば悪報が待っています。科学ばかりが重視される昨今、精神的なことは忘れられがちです。徳と子孫繁栄を何よりも重んじた古代中国の物語が、大切なことを教えてくれるでしょう。
永遠なる戒めに
漢の文帝、唐の太宗、清の康熙帝は、神佛を敬慕し崇め尊び、それぞれ「文景の治」「貞観の治」「康乾の治」を成し遂げた。その反面、佛教を滅ぼした皇帝もおり、史上で言う「三武一宗の滅佛」がそれであった。愚挙を行った彼らはいずれも若死にしたり変死したりして、国や民にも甚大な災いをもたらした。
【漢詩の楽しみ】 送梁六(梁六を送る)
【大紀元日本11月7日】巴陵一望洞庭秋日見孤峰水上浮聞道神仙不可接心随湖水共悠悠 巴陵(はりょう)一望、洞庭の秋。日に見る、孤峰の水上に浮かぶを。聞く道(なら)く、神仙(しんせん)接すべからずと。心は