中華世界の伝統文化は、古来より神伝文化と呼ばれてきました。
未来を予知できた人々
その神伝文化のなかで営まれた歴代王朝には、いくつもの超常現象があらわれています。それらは、正史に記載されることもあり、また伝承によって民間に広まることもありますが、いずれにしても各種の形式を通じて後世に伝えられてきました。
そうした各時代にあらわれた「奇人」とも言える人のなかには、例えば未来を予知できる能力をもつなど、人並みならぬ修煉によって超能力を体得した「高人(こうじん)」が含まれています。
正史に記録されている歴史的に有名な予言者には周文王、姜子牙、諸葛亮、李淳風、袁天罡、邵雍、劉伯温などがいます。
なかでも未来を予言した作品として有名なのは、李淳風と袁天罡による『推背図(すいはいず)』、邵雍の『梅花詩』です。本稿は、李淳風に関するいくつかの奇跡をご紹介します。
天文、占星術を自在に操る
李淳風(602~670)は天文、地理、占星術に秀でており、算術にも精通していました。
李淳風が生きた時代は、まさに唐王朝の「最盛期の前期」です。淳風の父である李播(りはん)は前王朝である隋の官僚でしたが、隋朝の滅亡を予見したため官を捨て、華山に身を隠して道士になりました。
李播も天文や算術に秀でており、その著書『天文大象賦』を後世に遺しています。父の教えに影響を受けた李淳風は、「幼い頃から優秀で、多くの書物を通読し、天文の測量や暦学にも明るかった」と言います。
李淳風がまだ若い頃、唐の第2代皇帝・太宗からその才を称賛され、太史丞の官職を拝命します。
622年には、天子の書物を扱う秘閣郎中の任に就き、そこで新暦の編纂に携わります。644年には『甲子元暦』を編纂して、後世の天文、暦法、数学の発展に大いに貢献することになります。彼はまた天文書『法象志』全7巻を著しましたが、その中で「前代の渾天儀における得失の差」について論じ、後世に重大な影響を与えました。
641年には『梁書』『陳書』『北斉書』『周書』『隋書』といった史書の編纂における総責任者となります。そこで李淳風は、『隋書』『晋書』のなかに、自ら『天文志』『律歴志』『五行志』を執筆し、中国古代の天象の変化と災害史料を保存するという貴重な事績を遺しています。
李淳風の大きな業績
唐代の天文学は、中国の古代天文史において重要な位置を占めています。
現在わずかに残っている天文学関係の著作の中で、70年代に湖南省長沙の馬王堆漢墓から出土した帛書『五星占』を除けば、他のいくつかの天文学関係の著作、例えば『開元占卜』『乙巳占』『歩天歌』などは全て唐代の作品です。その中でも、中国古代の最も重要な星象学の著作として、世界に伝わる2書のうちの1書である『乙巳占』は、李淳風の作品です。
李淳風は、世界で初めて、風の強さに「等級」をつけた科学者でもあります。
彼は『乙巳占』で風力を8段階に分けました。英国の学者たちは、李淳風から1000年後になってようやく、『乙巳占』を基準に風力をゼロから12のレベルに分類したのです。
命を懸けて「日蝕の日時を予言」
『隋唐嘉話』によれば、李淳風は新暦の校正過程で、「ある月の朔日(1日)に日蝕が現れる」という事実を発見しました。
それを不吉な予兆だと受け取った太宗は不機嫌になり、「もし日蝕が現れなければ、その時、汝(なんじ)は如何にして身を処するか」と李淳風に詰問します。
李淳風は、「もしも日蝕が現れなければ、臣(わたくし)は陛下より死を賜りとうございます」と答えました。死する覚悟を決めた李淳風の、確固たる返答でした。
やがて、その日が来ました。
太宗は宮殿の庭に出て空を見上げながら、その「結果」を待っていました。
しばらく経ちましたが、空には何の変化も起こりません。太宗は、側に侍する李淳風にこう言いました。
「(死ぬ前に)一度家に帰ることを許す。妻子に別れを告げてきなさい」
それは太宗の恩情でしたが、李淳風は家に帰ることはせず、近くの壁に印をつけてこう答えました。
「陛下。まだ早うございます。日光がここまで当たったときに、日蝕が始まるのです」
その後に現れた「結果」は、どうだったでしょうか。「如言而蝕,不差毫髪(予言の通りに日蝕が起こり、わずかな時間差もなかった)」と言います。
李淳風は、日蝕が起こる日時を正確に予言していたのです。
ある日、李淳風と張文収(ちょうぶんしゅう)は、太宗の外出のお伴に従いました。張文収は著名な宮廷音楽家です。ある所まで来ると、南から猛烈な風が吹き付けました。
李淳風は、その風をよみ「ここから南へ五里のところで人が泣いている」と言います。張文収もまた「そこには音楽の響きがあるようですな」と応じます。しばらくすると、はるか南の彼方からやってきた葬儀の列が、泣き声と楽器を鳴らしながら通り過ぎて行きました。
「すでに陛下の御家族になっています」
『新唐書』李淳風伝に、このような記載があります。
貞観(じょうがん)年間に、太白星(金星)が白昼に何度も現れました。太史による占いでは「女主昌」と言います。時を同じくして、「唐三世の後、女の武王が天下を有す」と説く『秘記』という本が民間に伝わっていました。いずれも、武則天(則天武后)の出現を予言したものと考えられます。
太宗は、日蝕の一件以来すでに大きな信頼を寄せている李淳風を側に呼び、密かに聞きました。
「近頃流布している『秘記』のいうのは、果たして本当であるか」
李淳風は、こう答えます。
「臣、謹んで申し上げます。私は天象を見上げ、暦数をよんで、このように判断いたします。彼の女人は、すでに陛下の後宮に入っており、また陛下の御家族の一員にもなっております。その女王は、今後30年にわたり、天下を手中にするでしょう。唐王朝の子孫をことごとく殺すという兆しは、すでに形成されております」
それを聞いた太宗は、「ならば今のうちに、疑わしきものは皆殺しにする、というのはどうであるか」と問います。
李淳風は、「人の力では、天命には逆らえません。その女王は結局死なずに、後で多くの罪なき人々の命を奪います。陛下は、慈善の心をお持ちになるべきでございましょう。さすれば、災いは小さくて済むかもしれませぬ」と説き、太宗が強硬な手段をとることを諌めました。
武氏の娘である照(しょう)は14歳で太宗の後宮に入ります。武照は、身の安全を図りながら権力の中枢に接近し、ついに太宗の息子の一人である李治(のちの高宗)を籠絡します。
この武照、のちの武則天は、高宗崩御後の690年、67歳にして皇帝の座に就きます。
「聖神皇帝」を自称し、国号を「周」に改めた武則天は、中国史上唯一の女帝となります。
この歴史的事実は、李淳風の予言の確かさを証明するものとなりました。
(文・周慧心/翻訳編集・鳥飼聡)
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