世界中に知れ渡っている名作『ジェーン・エア』はブロンテ3姉妹の長姉、シャーロット・ブロンテの代表作です。しかし、その妹のエミリー・ブロンテ の『嵐が丘』に対する世間の評価は「驚き」「衝撃」の言葉しかありません。著者は並々ならぬ情熱で、この小説に強烈な感情と悲哀を持たせました。大胆な想像力の産物であるこの小説に、衝撃を感じない読者はいないでしょう。
才女の傑作
エミリー・ブロンテは19世紀前半に活躍した女性作家として、生涯この一作品しか書きませんでした。当時、女性作家に対する評価は低く、エミリーは男とも女ともとれるような「エリス・ベル」という名でこの作品を出版しました。しかし、『嵐が丘』は当時の伝統的な道徳観に挑戦しているとして、長い間、社会に認められず、それどころか、批判や非難を浴びました。
それから1世紀ほど経過し、読者や文学界はようやく、エミリーが「ブロンテ3姉妹の中で最も偉大な天才」であり、「時代を超えた才女」であると褒め称えるようになり、そして、『嵐が丘』が空前絶後の偉大な傑作であると高く評価したのです。この小説の魅力はまだ完全に解き明かされておらず、現在もなお、多くの学者に探究、解読、論争されています。
エミリーは1818年7月30日、イギリスのヨークシャーのソーントンに生まれました。彼女は荒野の中の小さな村で成長し、3姉妹全員の小説はほぼすべて荒野を背景にしています。早くに母親を亡くし、父親は田舎の貧しい牧師ですが、博学でした。
エミリーは姉たちとともにある教会の寄宿学校に送り込まれましたが、学校の条件は厳しく、2人の姉は肺の病を患い、相次いで亡くなりました。その後、エミリーは姉のシャーロットと共に家に戻り、それから兄や姉妹たちと家で勉強したり、小説を書いたりしていました。
『嵐が丘』は、日記を書くのが好きだったエミリーが自身の日記からインスピレーションを受けたといわれている作品です。当時、すでに作家として人気を集めていた姉のシャーロットは、このエミリーの日記を読んで、この素晴らしい作品を世の中に広めるべきだと助言しました。
シャーロットの手助けもあり、エミリーは出版社に連絡し、こうして英国史上、最も独創的で衝撃的な傑作だと褒め称えられた『嵐が丘』が出版され、現在の私たちが鑑賞できるようになったのです。
(つづく)
(翻訳編集・天野秀)
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