ウクライナ共和国の国旗は、目にも鮮やかな青と黄が上下に配置された、まことにシンプルで美しい旗です。
その図案は、ゆたかに実った麦畑の大地と、澄み渡った青空を表しているそうです。
本当に、本当にその通りの平和な風景であったなら、人はどれほど幸せでしょうか。
黄色という目に心地よい色彩を想像していたら、こんな歌を思い出しました。
「菜の花畠に入日うすれ、見渡す山の端かすみ深し。春風そよ吹く空を見れば、夕月かかりて匂い淡し」。
尋常小学校唱歌「朧月夜」は大正3年(1914)に発表されました。以来、昭和から平成、そして令和の現代まで、日本人にこよなく愛される国民歌として歌われてきました。
この「朧月夜」が、劇中で歌われて印象的だった映画があります。
竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』(1947)は1956年と85年の2回、市川崑監督によって映画化されています。
85年版の映画のほうで、ビルマ(現ミャンマー)の村人に歓待された日本軍の小隊が、そのお礼にと、中井貴一さん演じる水島上等兵の竪琴に乗せて「朧月夜」を合唱するのです。
『ビルマの竪琴』といえば、月明かりの下で一触即発の危機に直面した小隊が、包囲する敵軍から聞こえてきた「埴生の宿」に唱和し、やがて両軍あわせての大合唱となり、戦闘を停止するという名場面があります。
それは、竹山道雄が小説に描いたメルヘンかもしれません。
ただ、悲惨すぎるウクライナの現状が連日伝えられる昨今、たとえメルヘンでも構わないと、すがりつきたい思いでその本のページをめくってみました。
すると、意外なことを発見しました。竹山道雄の原作のなかで、「朧月夜」は歌われていないのです。まだ白黒フィルムだった56年版の映画でも「朧月夜」は歌われていません。
市川崑監督は、なぜ85年版に「朧月夜」の歌唱シーンを入れたのか。その真意については、2008年に92歳で逝去された巨匠に、もはや聞く術はありません。
以下は勝手な想像でしかありませんが、市川監督はここで、日本の原風景である平穏な山里をうたう歌を兵士に歌唱させることで、食物をくれたビルマの村人の善意に対し、きちんと謝意を表したかったのではないでしょうか。
そういえば56年版の映画では、この場面は全く別の演出になっています。
夜にインド軍の包囲攻撃があることを、村人は初めから内通で知っていました。だからこそ、日本兵に食物を与えて油断させた後、自分たちはさっさと逃げるという村人の「ずるさ」の面を描いたのです。
竹山の原作も、実はそうなっています。おそらく市川監督は、その場面を完全に替えて、まったく別の演出で撮り直したかったのでしょう。
アブラナとも呼ばれる菜の花は、もちろん観賞用の花ではなく、食用になる野菜であり、菜種油を搾る原料でもあります。日本では、江戸時代にひろく全国で栽培されていましたが、その主な目的は搾油でした。
菜の花は、まことに不思議な花です。
一輪あるいは一朶を手に取ってみても、さほど美的鑑賞には耐えられません。
ところが畑一面の群生となると、その明るい黄色が一つの仏国土のような「世界」を形成し、ゆたかな芳香とともに、見る人を吸い込むように引き付けるのです。
菊や牡丹のような園芸種と違って、愛好家が趣味でいじる対象にはなりません。
菜の花は昔も今も、いわば日本の稲、ウクライナの麦と同じく、大地に働く農民の作物なのです。
誰がそれを決めるのか詳しくは知りませんが、文学忌と呼ばれる日があります。
著名な文学者(作家)の忌日を記念して、例えば太宰治が「桜桃忌」、正岡子規が「糸瓜忌」というように、ゆかりの雅号や植物名などを冠してつけられるものです。
司馬遼太郎さんが亡くなったのは1996年2月12日で、その命日は「菜の花忌」と呼ばれています。
司馬さんは、菜の花を愛する人でした。自宅の書斎から見える庭先に、自分で菜の花の種を撒き、春にはその黄色い花を楽しんでいたそうです。
司馬遼太郎さんの代表作を数えれば、とても10本の指では足りませんが、そのなかの一つに『菜の花の沖』があります。江戸時代後期の船乗り、高田屋嘉兵衛を主人公にした長編小説で、『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』とともに、司馬さんのお気に入りの作品だったそうです。
その嘉兵衛の生国は淡路島でした。淡路島は菜種の大産地であることから、菜の花の黄色い群生が、はるか沖の海上から鮮やかに見えたはずです。
その風景を、司馬さんの小説の描写に従えば、次のようになります。
「晩春になって、あぜ道をゆくひとびとが汗ばむころになると、全島が菜の花の快活な黄でうずまり、その花ごしに浦々の白帆が出入りした」
この時代には、淡路島から見た対岸の六甲山麓で、川の急流を利用した大型水車による搾油技術が発達し、菜種油の大量生産が可能になったという背景があります。淡路島が菜種の一大産地になったのは、そのことによります。
淡路島のそれに比べれば小規模ではありますが、司馬遼太郎さんが「菜の花の快活な黄」と記した明るい黄色を、東京の都心でも見ることができます。
ここは、東京の「サラリーマンの街」新橋からほど近いところにある浜離宮恩賜庭園。
その園内の一角にある「お花畑」で、春は菜の花、秋にはコスモスが、約30万本という数で咲きます。
この庭園は、江戸期には徳川将軍家の鷹狩の場所であり、浜御殿と呼ばれました。実は、海上から攻めてくる敵を討つため、江戸城の出城の機能ももたされていた場所です。
明治維新から昭和20年までは宮内省の所管となり、戦後は整備された都立庭園として現在に至っています。
園内に入ると、まずは左手に「三百年の松」と呼ばれる黒松の巨木が迎えてくれます。
宝永6年(1709)ごろに植えられたものとされ、巨龍がうねるようなその姿は、この庭園が確かに江戸時代から続く歴史を有するものであることを物語っています。
広い園内には、なかなか良いかたちの池もありますが、その水に日本庭園の定番である錦鯉などはいません。東京湾の海水を引いた「潮入りの池」であるため、鯉の代りに、関東ではイナと呼ばれるボラの幼魚やハゼなどが棲息しています。
菜の花が群れ咲く「お花畑」の側に立ち、しばらく目を閉じてみてください。
風向きの良いときには、まことに甘美な花の香りを全身に浴びることができます。
東京都心で「良い匂いがする場所は」と聞かれれば、この時季の浜離宮を推薦して間違いはないと思われます。
そしてかなうことなら、この芳しい香りを、遠い戦火の国にまで届けたい思いにかられます。
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