2003年、米国主導の多国籍軍によりサダム・フセイン政権が崩壊したとき、アデル・アメールさんは歓喜の声を上げた。写真は2004年、バグダッド西部で起きた爆発から一夜明けた現場で涙を流す女性。2004年12月29日撮影(2023年 ロイター/Ali Jasim)

アングル:フセイン亡き後も続いた恐怖、元脱走兵の20年

Ahmed Rasheed

[バクダッド 14日 ロイター] – 2003年、米国主導の多国籍軍によりサダム・フセイン政権が崩壊したとき、アデル・アメールさんは歓喜の声を上げた。イラクとその国民を叩きのめした戦争、そして経済制裁による孤立の20年間が終わったと思ったからだ。

「我を忘れて踊り出してしまった。サダムがいなくなったことが信じられなかった。カゴから解き放たれた鳥のように感じた」とアメールさんは語る。

だが結局のところ、それは新たな対立と混沌(こんとん)の時代の始まりにすぎなかった。反政府勢力、イスラム主義勢力による暴力、宗派間の抗争により、今年63歳になるアメールさんとその家族の苦難はいっそう深まった。

アメールさんの苦難は、2003年3月20日に始まった米国主導のイラク侵攻よりはるか前に始まっていた。彼は1980年代のイラン・イラク戦争の最中に軍を脱走した。

「たえず死の恐怖に直面し、イランのひっきりなしの激しい砲撃によって友人が殺され、重傷を負っていくことに耐えられなくなった」

ロイターの取材に応じながら、アメールさんは涙をこらえつつ、昔の写真を取り出した。戦争中、当時20歳のアメールさんが戦友たちとともに塹壕の中で撮ったものだ。この戦争では100万人の命が奪われた。

白いひげをたくわえたアメールさんは、「今こそ軍を脱走すべきだと思った。捕まったら処刑されると分かっていたが、生き延びるためには試してみる価値はあり、決行した。今生きていられるのは、脱走したおかげだ」と語る。苦労の多い人生を経て、疲れて弱り切っているように見える。

アメールさんはバグダッド空港の近くの農村にあった実家を離れ、義理の兄弟が所有する果樹園で暮らすことにした。フセイン政権の治安部隊による捜索から逃れるために、長いひげをたくわえ、農夫として働いた。

1990-91年、フセイン政権下のイラク軍が隣国クウェートに侵攻し、イラクが国際社会で孤立したことで、アメールさんは新たなリスクを負うことになった。

米国主導の多国籍軍はイラク軍を攻撃し、国連は10年以上にわたり対イラク制裁を発動した。

フセイン政権は「兵役拒否は耳の一部を切り落とすか、額にXの焼き印を押す」という趣旨の命令を出したが、それでもアメールさんは、7カ月にわたるクウェート占領の間、徴兵を拒否し続けた。

かつての戦友からも近所の住民の多くからも疎まれていたアメールさんだったが、捕まれば処刑されることは分かっていたため、彼を引き渡そうとする者はいなかった。

「ひどく苦しんだ。自殺を考えたこともあったが、たとえわずかであっても常に希望はあると自分に言い聞かせた」

2003年、サダム・フセインによる長年にわたる独裁政治が終わった時、アメールさんは自宅で派手なパーティーを開いた。米軍がこの国の支配権を握った今、慌てて逃げなければならないような事態は二度と訪れないだろう。アメールさんはそう考えた。

ところが、暴力はさらに続いた。国際テロ組織アルカイダによる活動で国は荒廃し、爆弾が炸裂し、斬首が行われた。まもなくイラクは2006年から2008年にかけて、主としてスンニ派とシーア派による宗派対立に陥った。川には死体が浮かんだ。

<拉致された家族>

アメールさんをはじめ、多くの人々が再び恐怖の中で暮らすようになった。スンニ派武装勢力、そして多くがイランの支援を受けたシーア派民兵が、イラク国民を恐怖に陥れ、米軍部隊と戦うようになったからだ。

2004年10月には、アルカイダに忠誠を誓うスンニ派反政府勢力が、家の畑で働いていたアメールさんの父親、きょうだい、いとこを拉致し、どこへとも知れず連れ去った。シーア派だからというだけの理由だった。

「3人が拉致されてから1年ほど経った頃、警察が私の家にやってきて、ここからそう遠くない沼地に遺棄されていた3人の遺体の一部が発見されたので、バグダッドの中央遺体安置所に来てくれと言われた」

アメールさんの記憶によれば、バグダッドの遺体安置所では、構内の至る所に遺体が積み重ねられていたという。

「手首の骨の周りに巻き付いていた腕時計で、1人の身元が分かった。きょうだいのカディムだった」とアメールさんは言う。

アメールさんは再び身を潜めた。妻と3人の娘のために食料を買いに行く時以外には、めったに外出しなくなった。

その後、ようやくのことで明るい兆しも見えてきた。

2010年、アメールさんは外資系建設会社で仕事を見つけた。

ところが、3年後にはさらなる苦難が襲った。アメールさんは、イランの支援を受けた武装グループ「アサイブ・アフル・ハック」に近い民兵に逮捕され、殴打されて、道端に放置された。腕と肋骨、3本の歯が折れていた。

「米国企業で働くな、働けばスパイと見なす、と彼らは言った」とアメールさんは言う。

「この状況は耐え難かった。テロリストに家族の命を奪われたあげく、より良い生活を夢見たというだけで、同胞であるシーア派から拷問されて屈辱を与えられるためにサダム・フセイン時代を生き延びたんじゃない」

命の危険を感じたアメールさんは仕事を辞め、2015年には意を決してトルコに逃れた。それから5000ドルを払って偽造パスポートを入手し、ギリシャ経由で欧州への亡命を試みたが、アテネ空港の警察に逮捕され、1週間拘留されたのちにトルコに送還された。

「自分の国にはウンザリだった。イラクで生きていくのは地獄であり、命の危険があったとしても移民に挑戦し続けようと決めた」

2016年、トルコの不法移民あっせん業者が保有するバスを同国警察が停止させた。車中には、船でギリシャに渡ろうとしていたアメールさんなど20人のイラク人が乗っていた。アメールさんは1カ月後にイラクに強制送還されたという。彼は今も、シーア派グループに命を狙われる恐怖の中で暮らしている。

バクダッド中心部にあったサダム・フセイン像を米軍とイラク人が引き倒してから20年。アメールさんは、イラクを離れる決意は今も固いという。

「サダム・フセイン時代に潜伏していたのと同じように、今も私は逃げ隠れしている」とアメールさんは言う。「米軍の侵攻前には、サダム・フセインが1人いるだけだった。今では、似たような輩が大勢いる」

(翻訳:エァクレーレン)

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