韓信――兵仙(13)戦いには必ず勝ち、巧妙な手口で相手を負かす、六回の奇襲の末、ついに天下を統一する【千古英雄伝】

(続き)

歴史に詳しい人なら誰でも、韓信が「前漢の三英雄」の一人であり、「不滅の軍人」としても知られていたことをご存じでしょう。秦と漢、時代の変わり目の戦乱の時代に生きて、彼は武術においても軍曹としても最強ではありませんでしたが、神のような戦略によって衰退していく漢に「魔法」をかけ、盛り返すことができたのです。そう、次々と戦いに勝利できたのです。

韓信なくして大漢の天下はなかったと言っても過言ではありません。では、わずか数年の短い軍歴の中で、何千年もの間、人々に語り継がれるような数々の有名な戦場をくぐりぬけた韓信は、いったいどんな奇跡を起こしてきたのでしょうか?

陳倉の戦い  山から初陣を仕掛ける

「陳倉の戦い」は、韓信が将軍劉邦を崇拝し、漢軍を率いて天下を征服した最初の戦いでした。韓信は何の取り柄も人望もありませんでしたが、蕭何の強い推薦で劉邦の将軍となった人物です。劉邦はその場で天下統一の戦略を立て、まずは漢中を脱出して三秦に戻っていきました。この戦いは韓信が初陣を飾り、一躍有名になるための重要な戦いとなります。

当時、漢中と三秦の間には、焼け落ちた褒斜道(山の斜面の道)と狭い陳倉道(陳倉へ向かう道)の 2 本の板道しかありません。紀元前206年6月、項羽が斉を攻撃した際、韓信は樊噲(はんかい)らを派遣して褒斜道を修復するふりをさせ、秦軍の注意を引くために、まずここから挙兵したのです。韓信は自ら軍を率いて陳倉道から静かに漢中を離れ、秦軍の後方である軍事都市・陳倉に入りました。 

秦軍が陳倉へ救援に来ると、桟道(崖に作った棚のような道)を築いていた漢軍も駆けつけて合流し、前後に挟撃して秦軍を破りました。韓信が三秦を突破するのにわずか4か月しか、かかりませんでした。この戦いは後世に「表で桟道を修繕し、裏では密かに陳倉を渡る」、つまり「表裏一体」と総括され、これは兵法書『兵法三十六計』に収められています。

韓信は兵を率いて密かに陳倉を渡る。(大紀元製図)

滎陽の戦い 流れを変える

三秦を占領した後、劉邦は疑心を抱き、韓信に関中に留まって軍を率いて戦うよう命じました。紀元前205年4月、劉邦は彭城で敗れ、滎陽へ退きます。漢軍50~60万人が死傷し、劉邦を支持した諸侯や王たちは、逆に項羽に従うようになり、楚軍は再び滎陽の東を占領し、いつでも攻撃できるよう軍隊を送り、漢王朝は滅亡の危険に瀕しました。ここで窮地に追い込まれた劉邦は、再び韓信を利用する作戦をとりました。 

危険が迫ったときに命を受けた韓信は関中を出発し、滎陽の最前線に急行し、地元の有利な地形を利用して厳重な防御線を築き、「京縣」と「索亭」の地で楚軍を繰り返し撃退しました。漢軍は楚軍との戦いの最前線を興陽の東、さらに彭城にまで伸ばし、ついに漢軍全敗の危機を脱することができたのです。 

この戦いは5月から7月にかけて起こり、「滎陽の戦い」と呼ばれました。以来、流れは漢の「極めて不利な立場」から楚と漢の対立へと移っていきます。

安邑の戦い 奇跡の勝利

「安邑の戦い」は魏を滅ぼす戦いでした。魏王豹と項羽は連携して漢を攻撃し、挟撃を仕掛けたのです。紀元前205年8月、魏の軍勢は黄河の渡河点である浦津関を封鎖し、川を挟んで韓信と対峙しました。当時の韓信軍は100隻余りの古い船しか所持していませんでした。もし川を渡って武力攻撃すれば激戦が予想されます。そこで韓信は自分たちの弱みを見せること避け、強さを強調し敵を欺くことにしたのです。

彼は川を渡る準備ができていると見せかけて1万の馬を軍船で送り、対岸の渡し船を守るために魏軍の注意を引くことにしました。暗闇の中で、彼は別の軍隊を率いて川に沿って北上し、夏陽の古い渡り港口(川尻)に到着しました。船はすべて下流に集中していたので、韓信は川を渡るための特別な道具、「罌(おう)」を発明しました。それは、数十個の大きな容器を長方形に並べて配置し、ロープで結び、木で固定したものでした。漢軍はこのような「いかだ」に乗って魏軍に気づかれずに黄河を渡ることに成功し、魏の軍事拠点である安邑に奇襲を仕掛けたのです。

安邑が陥落したことを知った魏軍はすぐに救援に駆け付けました。すぐさま韓信が事前に手配した兵1万も川を渡って攻撃し、安邑軍とともに魏軍の側面を突いて、とうとう魏王豹を生きたまま捕え、捕虜にできたのです。 1か月もしないうちに韓信は魏を平定し、この戦いで漢軍は隣国・魏の脅威をなくし、軍事的威信を回復したので瞬く間に韓信の名声は国中に広まりました。

韓信、時代を超えて有名な将軍。(大紀元製図)

井陘の戦い 背水の陣

紀元前204年、韓信は新たに徴兵した3万騎を率いて趙を滅ぼす戦いを開始しました。趙国の総大将・陳餘は20万の兵を動員して、守りやすく攻めにくい太行山の井陘口に駐屯し、戦いの準備を始めます。参議官の李左車は陳餘に敵にまず漢軍の食料や草を刈り取ってから持ちこたえるように提案し、韓信を窮地に追い込むように提案しましたが、陳余は「正義の兵士に陰陽の策略は必要ない」という理由で拒否しました。 

韓信は軍を率いて井陘口付近に駐屯し、深夜に騎兵2千人を選抜し、各自に漢軍の赤旗を持たせるよう命じ、細い道を通って趙の近くで待ち伏せさせます。そして趙の軍が本陣から攻撃したらすぐ趙の旗を全部奪い、漢の赤旗に変えるように命じたのです。さらに全軍に断食を命じ、「今日は趙軍を倒したら朝食を食べろ!」と激を飛ばし、次に「敵地に陥るも生きて帰る」という兵法を使って、井陘口から出て川沿いに整列するよう命令しました。

夜が明けると、韓信は軍を率いて趙軍と激しく戦い、負けたふりをして川まで退きます。漢軍全員が生き残るために趙軍の主力と死闘を繰り広げていきます。この戦いで陳餘の攻撃が阻止されたため、一旦、兵を撤退させて陣営に戻ると、なんと陣営には漢軍の旗が大量に揚げられているではありませんか。趙国は漢軍に占領され、軍は混乱しているのではないかと陳餘は愕然としました。この隙を狙い、韓信は軍を率いて追撃し、ついに趙軍を破ったのです。つまり一日で趙を破ることができたのです。

この戦いで、韓信は「趙を破ってから食事を取る」と「背水の陣」という2つの奇跡的な兵法で歴史に名を残し、少ない軍力でより多くの勝利を収め、勝算とそのプラスの面も両方を利用するという古典的な戦いの例を生み出しました。

濰水の戦い 一万人の軍隊を水没させる

紀元前203年11月、韓信が斉を攻撃すると、項羽は保身のため斉を支援し、大将軍・龍且が率いる20万の楚軍を派遣し、濰水川の両側で韓信の10万にも満たない軍勢と対峙しました。ある人は、龍且に「深い溝と高い砲台を築き、戦うことを拒否するべきだ。そして斉王が軍隊を招集した後、漢軍に対抗するために力を合わせた方がいい」と提案しました。しかし龍且は貪欲に武功を膨らませて、韓信を軽蔑し戦争を決意したのです。

韓信は濰水と地理的な優位性を利用して、敵を倒すための巧妙な作戦を立てることにしました。彼は兵士に対し、砂を詰めた布袋1万枚以上を用意させ、渭河の上流に運び、流れをせき止めるよう命じます。また二方面に軍を割り当て、そのうちの1軍を水辺で待ち伏せさせ、もう1軍を率いて川を渡って攻撃させました。そして漢軍が川を渡っているところを龍且が攻撃しましたが、韓信は負けたふりをして退き、龍且に軍を率いて追撃するように誘い出したのです。

楚軍の大部分が川の中に入ったとき、韓信は上流を堰き止めていた土嚢の撤去を命じると、長い間、上流に溜まっていた川の水が勢いよく濁流となって押し寄せました。この人為的な洪水で楚軍は川に流され、他の楚軍は両岸に分かれ、軍隊の先頭と最後尾が分断されました。そのタイミングで韓信は兵を出して楚軍を攻撃したのです。この乱戦の中で龍且は戦死し、楚軍は全滅しました。「濰水の戦い」も、韓信が少ない兵力で大勝利を収めた重要な戦いでした。この戦いによって、項羽の軍隊に大きな損害を与え、楚は滅亡への最終段階を迎えていきました。

『史記』(明の万暦26年に北監発行)漢代の司馬遷が著し、宋代の裴駰が解釈し、唐代の司馬貞が目録を作成し、唐の張守節が解釈したもの。(パブリックドメイン)

垓下の戦い 敵の周囲に潜む

これは楚と漢の決戦であり、韓信の生涯で最後の戦いでもあります。紀元前 202 年、韓信は 70 万の漢軍を指揮し、項羽の 10 万の残党を相手に、完璧な軍事指導力を発揮する機会を得ました。兵を五つに分けて、自ら前軍を率いて項羽と戦い、負けたふりをして楚軍に追わせて左右に漢軍がいる待ち伏せの場所へ誘導しました。そして項羽は漢三軍の挟撃を受けて兵の大半を失い、垓下へ退いたのです。

夜になると楚の陣の外では楚の国の歌声が響き渡り、軍の士気は落ちていきます。項羽も楚は漢軍に占領されたと思い、天下を取るという野望も次第に消えていきました。

彼は悲劇的な状況下で、自分の気持ちを惜しみなく歌います。:「我が力は山をも引き抜き、気は世をも蓋うというのに、時勢は不利で、騅(あしげ:項羽の愛馬)も進もうとしない。騅が進まぬことを我はどうすることもできない。虞(項羽の愛姫)や、虞や、我はそなたをどうすればよいのだろうか!」彼は歌いながら泣き、兵士たちも一緒に悲しみました。韓信は「四面楚歌:四方を包囲する」という心理戦術を用いて楚軍を悲哀の境地に陥れ、精神面を突いて完全に楚軍を破ったのです。

項羽はやむなく800騎を率いて包囲を勇敢に突破し、漢の将軍たちの首を次々ととっていきました。しかし自らが率いる兵士や馬の損害は避けられず、最終的に彼の周りに残ったのは26人となりました。彼は烏江方面に逃亡を企てますが、烏江亭長川を渡らせてくれるという好意を断り、漢軍との激しい戦いを続け、結局、自害し、自ら「楚の君主の勇敢で無敵の人生」に終止符を打ったのでした。諸王たちの天下の争いもこれで終わり、韓信はついに世界を平定するという大きな夢を実現し、中国統一王朝の新時代を切り開いていったのです。

韓信は生涯戦い続け、漢王朝の中国を統一する戦いに貢献しました。一部の人々は彼を「国家の無比の兵士」「不滅の兵士、戦争の神」と称賛しましたが、彼が残した戦いの奇跡、それらのおなじみの慣用句や暗喩となって今も語り継がれています。これは中国の歴史、永遠の記憶であり、中国文化の貴重な財産でもあるのです。

(完)
(參考資料:《史記》)
點閱【兵仙韓信故事系列】連載。

 

柳笛