韓信――兵仙(9)斉の殲滅の犠牲者、麗食其の死は韓信とは何の関係もない【千古英雄伝】

(続き)

策士の李左車の提案の下で、韓信は「尺書降燕」(韓信が燕の王に手紙を送り、自分の威信で相手を降伏させたことを指す)して、斉は項羽に続く唯一の強力な家臣国家でありました。したがって、韓信の次の計画は斉を征服することでした。

大将軍が自ら現場に君臨することで、漢軍はすべての戦いに勝利しました。しかし、斉を亡ぼす中で、斉王に降伏するように説得した策士の麗食其が、斉王によって残酷に殺されてしまいます。彼が殺された理由は、韓信が軍事的功績に貪欲で、斉が降伏を表明したときも「約束を繰り返し破った」ためであると言う人もいますが、果たして、軍の総司令官として、韓信は麗食其と功績を争う必要があったのでしょうか?また、麗食其の死因は何だったのでしょうか?

紀元前204年6月、韓信が斉に出兵する前、連敗を続けていた劉邦は、たった一人の兵士を残して韓信の陣営に忍び込み、「晨奪將印:つまり朝に将軍の封印を奪う」という芝居をし、韓信の軍事力を奪ったのです。軍を率いるのが得意な韓信は、その時も漢王朝への忠誠を保ち、戦いに備えて趙の土地で新兵を訓練していました。斉国は韓信が強いことを知っており、すぐに国境を厳重に警備するために20万人の軍隊を動員します。戦前、劉邦が頼りにしていた策士の麗食其は、自ら志願して斉王を説得する使者となり、劉邦の了解を得ました。

麗食其は、斉の王の田広と首相の田橫を説得し、百戦百勝の大将軍の韓信がいる以上、漢王朝が世界を統一することは時間の問題だと話しました。斉の王の田広と首相の田橫は大いに納得し、劉邦の降伏に同意し、麗食其を賓客と見なし、毎日宴会を開いてもてなしました。この時、韓信はすでに部隊を東に向けて率いており、劉邦の取り決めを知りませんでした。ちょうど黄河を渡る前、麗食其が斉に降伏するよう説得し、撤兵して戻る準備をしていると突然聞かされます。 

『史記』(明万暦二十六年の北監刊本)、漢の司馬遷が著し、宋の裴駰が解釈し、唐の司馬真索引して、張守節が説明した。 (パブリックドメイン)

韓信の策士の蒯通(かいつう:本名は蒯徹)は、この時点での停戦は非常に不適切であると考えていました。韓信は劉邦の名の下に斉を攻めましたが、漢の使者による説得にもかかわらず、劉邦は出撃の命令を取り消しませんでした。もし韓信が斉国への攻撃を止めれば、彼は劉邦の命令に従っていないことになります。また、酈食其が斉王を説得できたのも、韓信の威名に怯えたためであり、韓信が去ってしまえば、強大な斉国は漢朝に心を開かないでしょう。

蒯通は「説得がうまい」と世に知られており、機敏かつ雄弁で、かつて陳勝の将軍を趙に降伏させた経験があり、兵士を一人も犠牲にせずに30の都市を降伏させ手に入れたことがあります。したがって、韓信は蒯通の提案を非常に重視しました。この時、斉国は警備を緩めていたため、軍隊を派遣するには良いタイミングでした。そこで、韓信はすぐに川を渡って城を攻撃し、斉の国境を襲撃し、斉軍の主力を一掃し、斉国の首都である臨淄に直進したのです。

斉王はその知らせを聞いて激怒し、麗食其が自分を裏切ったと思い、「漢軍の攻撃を止めることができれば、私はあなたを解放する。そうでなければ、火鍋であなたを煮て殺す!」と呪いました。漢の国のことを何よりも大切に考えた麗食其は、「偉大なことをする人は小さなことを気にせず、偉大な美徳を持っている人は非難を恐れません。私はあなたのために韓信に撤回するように働きかけません!」と斉王の提案を拒否したのです。そのため、機知に富んだ麗食其は拷問されて死亡しました。その後、斉王と斉首相は慌てて逃亡し、一カ月も経たないうちに斉国は韓信の支配下に置かれたのでした。  

劉邦は漢軍の指導者であり、全ての将兵が彼の命令に従っていました。史実からは、韓信や酈食其が劉邦の命令に従って行動していたことがわかります。もし韓信が出兵しなかったら軍事命令違反と見なされ、責任を免れることはできません。劉邦は齊国の大軍を恐れ、酈食其を使って齊国を服従させる勝算を高め、同時に齊国が本当に忠誠を誓うか不安で、韓信に一挙に平定することを望んでいました。そのため、酈食其の死は完全に劉邦の手によるものでした。

韓信は出山して以来、軍を率いて戦い、多くの軍事的功績を残しました。漢のために彼が高い業績を蓄積したにもかかわらず、劉邦から頻繁に疑われ、排除されたのです。彼の野心は、世に平穏をもたらし、乱世を終わらせることです。それなら、自分の信用を得るために弱者と競争する必要がどこにあるのでしょうか?

(つづく)
 

 

柳笛