孫思邈(そんしぼう・西暦581年~682年)は隋の前から唐の初期の陝西・西耀の人で、享年102歳でした。彼は7歳で学業を始め、日に千字を暗誦することができ、20歳前後になると、老子、庄子と諸子百家の学説を好んで読み、また、仏教の経典を読むのも好きでした。当時、洛陽の総監・独孤信(どっこ しん・502年~557年 中国の西魏の匈奴系軍人)は彼を見て、「この人は聖童ですが、器が大きくても見識がないかも知れない、出世は難しいでしょう」と言いました。
孫思邈は世の中の風紀が日に日に悪くなり、世間の人々が名利を追求し、悪知恵を働かして物を奪い取り、 欲深くて満足することを知らず、自らを放任して最後に死んで行くのを見て嘆き悲しみました。彼は「道徳を修めても果報を求めず、やがて福報が得られても長生きを求めず、やがて自然に寿命が延びることは一番だ」と言いました。
北周の宣帝(せんてい・559~580年)の時、孫思邈は王室に変事が多い事を理由に、終南山(中国西安の南に位置する)に隠遁しました。隋文帝(隋の初代皇帝・在位581~604)が輔政をした時、彼は「国子博士」(古代の官職)になってほしいと召されましたが、彼は病気を口実にして断りました。そして、周囲の親しい人に、「後50年が過ぎれば、聖人が誕生するでしょう。その時、聖人が世間を救うことを手伝いましょう」と言いました。
50年後、唐太宗・李世民(唐朝の第2代皇帝・598~649)が即位しました。太宗は孫思邈を京城まで呼び出し、彼の容貌の若さに驚き、「あなたは会えば道徳のある人が本当に尊敬され、敬慕されるべきだとよく分かりました。広成子(こうせいし・中国の小説『封神演義』や『神仙伝』に登場する仙人)などの仙人の話は確かに嘘ではありません」と感嘆しました。太宗は再三に爵位を授けたいと言いましたが、孫思邈は固くお断りして受け入れませんでした。唐顕慶4年、唐高宗(唐の第3代皇帝)は彼に諫議大夫(政治の得失を論じ、天子をいさめるのを任務とする官職)になってほしいと求めましたが、彼は再度固く断りました。上元元年(674年)、孫思邈は病気を理由に故郷に帰ることを申し出ました。彼は高宗から駿馬と鄱阳王女の城邑を賜りました。
孫思邈は一生医者をやりながら、薬草を採集し、陝西の太白山、終南山、山西の太行山、河南の嵩山及び四川の峨嵋山などを巡りました。彼は民間に伝わる簡単な処方や験方、そして薬草の使い方を広く収集し、薬剤学の研究においては、後代に『千金要方』と『千金翼方』の大著を残してくれました。この二つの著作は中国古代医学の百科全書だと称えられ、前の漢と魏を承け、後の宋と元をつなげるという歴史的な役割を果たしました。日本では、天宝、万治、天明、嘉永および寛政年までの間、何度も『千金要方』を出版されました。孫思邈が逝去した後、人々は彼が隠遁して暮らしていた「五台山」を「薬王山」に改名し、そして、山で彼のために廟を建て、塑像を作り、記念碑を立て、彼の功績を称えました。毎年の旧暦の2月3日になると、地元の人々は彼を記念する祭りを開き、その祭りは延々と2週間も続いたそうです。
8斤半の草鞋
孫思邈は山に入り、師に従って医学を長年勉強しました。彼はとても勤勉で努力家で、その上、人格や医師としての道徳が師父に高く評価され、師父から極意を授かりました。山を下り、師父と別れを告げた時、師父は、「世の中の事は全て定められているので、一時的な困難に遭ったぐらいで、人を助ける願望をなくしてはいけない。おまえは人の利益を損ない、師を侮辱するようなことをしないと信じている。初志を改めなければ、必ず大成するだろう」と心をこめて教え、諭しました。
孫思邈は涙を流して師父と別れ、山を下りました。彼は謹んで師父の教えに従い、誠心誠意に人々に治療を施しました。しかし事は希望通りに行かず、彼はうまく治療するどころか、治療すればするほど、患者が必ず死んでしまいました。人々は彼を非難し、罵り、そして、まるで伝染病を避けるかのように彼を追い払いました。彼は旅先の苦難や野宿での苦労を嘗めなければならないだけでなく、さらに人々からの罵倒や侮辱にも耐えなければなりませんでした。
ある日、彼はついに我慢できず山に戻り、涙を浮かべながら師父に苦衷を訴えました。師父は彼を責めることなく、慈悲深く彼を見つめて、心を込めて、「おまえが耐えて来た苦しみをわしは全部知っている。しかし、これはあくまでもおまえが成長する過程のことだ。運が向いて来れば、すべては変わるだろう。諦めるな。おまえの草鞋が8斤半になった時、すべては必ずよくなる」と励ましました。
孫思邈は再び師父と別れて山を下りました。以前と同じような辛い境遇を経験しましたが、彼は諦めず、苦難の中で自らを励ましました。ある日、彼はある泥沼を通過した時、履いた草鞋がぐしょぐしょになりました。ようやく泥沼から出て来た彼は、大きな木に寄りかかり、草をより合わせた縄で草鞋を縛り、終わって見ると、草鞋は大きくて重たくなりました。それでも仕方なく、重たい草鞋を履くしかありませんでした。
しばらく歩くと、突然、野送りをする人々が泣きながら自分の前を通りかかり、霊柩から血が垂れているのを見ました。孫思邈は近づいてじっとその流れ出る血痕を見て、中の人はまだ助かるだろうと判断しました。そこで孫思邈は追いかけて大声で「止まりなさい! 止まりなさい! その中の人はまだ助かるかもしれない、まだ助かるかも……」と叫びました。
人々は気違いが、またでたらめなことを言っていると思いました。孫思邈は幾度も人々に霊柩を下ろしなさいと言いましたが、誰も聞いてくれませんでした。地元では野送りをする途中で、霊柩を下ろすのは縁起が悪いと言い伝えられていたからです。仕方なく孫思邈はついて歩きながら、「棺(ひつぎ)の中の人は難産で死んだのでしょう? 赤ちゃんは生まれてこず、お母さんも出血が止まらないで痛くて亡くなったのでしょう? 棺に入れてから野送りするまで、ずっと血が垂れているでしょう? この人はまだ助かります。霊柩を早く下ろしてください。さもなければ間に合いません」と言いました。
孫思邈が言ったことはまるでこの目で見たようにすべて正しかったので、人々はやがて彼の話を信じるようになり、霊柩を下ろして開け、彼に治療させました。孫思邈は1本の針を取り出し、つぼを見つけて針を刺しました。すると、産婦は「あー」と声を上げて、意識が戻ってきました。人々は皆驚いて声を上げました。この時、赤ちゃんの泣き声も聞こえました。お母さんも赤ちゃんも助かりました。人々は皆飛び上がって喜びました。
それから、孫思邈が1本の針で2人の命を救った美談が広く伝わりました。
人々は神様にお仕えするように、丁重に孫思邈を家に迎えました。産婦の家族全員は彼を拝みに拝んで、この命の恩人にどう感謝したらいいか分かりませんでした。
翌日、孫思邈は別れを告げようとしました。家族は精一杯引き止めましたが、断わられました。お金を謝礼として渡そうとしましたが、孫思邈は受け取らず、ただ新しい靴だけをいただきました。産婦の夫は古い草鞋を捨てようとしましたが、孫思邈はとても手放したくなく思い、秤で量ったらちょうど8斤半の重さでした。
それから、孫思邈はさらに師父の教えを固く信じ、世間の人々を病苦から救う事に励ましました。非常に不思議なことですが、それからというもの、孫思邈が患者を治療する度に、病気が完治するようになりました。当然、孫思邈のことは「草鞋名医」の名で、多くの神話がさらに広く世に伝えられるようになりました。
(続く)
――「明慧ネット」より転載
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