周王朝の軍師・太公望(呂尚:姜子牙)が著したと伝えられる『六韜(りくとう)』は国家運営、組織統治、情報操作、人心掌握に至るまで、現代の政治・経済に通じる包括的な戦略原理を表している。
『六韜』の「戦わずして勝つ」思想は、孫子の『孫子』とも共通する部分があるが、敵の内部崩壊をより詳細に分析している。特に「龍韜」「豹韜」「犬韜」では、心理戦、経済戦、情報戦を駆使し、敵を内部から瓦解させる戦略が体系的にまとめられている点で注目に値する。
太公望は紀元前11世紀、殷末周初(いんばつしゅうしょ-中国の殷王朝が滅び、周王朝が興った時代)の激動期に登場し、当時没落しつつあった周の文王・武王に仕えて政略・軍略を担い、殷王朝を滅ぼして周の建国を導いたとされている。単なる軍師にとどまらず、彼は戦略思想の創始者として、後世の兵法・統治論に多大な影響を与えた存在だ。
この太公望が『六韜』の中で残した興味深い言葉に、次のような一節がある。
「賞賢罰愚(しょうけんばつぐ)、敵を益す。賞愚罰賢(しょうぐばっけん)、敵を損なう」
すなわち、敵が賢者を登用し、愚者を排しているうちは、その国家は強靭である。しかし、逆に愚者を賞し、賢者を退けるようになれば、その国は自らの手で自壊の道を進むという。
このような戦略的思考は、現代においても形を変えて現れている。敵国の無能な者をあえて称賛し、その者を重用させるよう世論を誘導する。その一方で、本来指導層にふさわしい有能な者を疑わせ、排除させる。これによって、敵の組織は機能不全に陥り、内部から衰退していく。
敵が称賛する、または非難する、その評価がどのような意図と構造のもとに形成されたのかを、冷静に読み解く視点は現在においても欠かせないものだ。
古代の戦略書が語るように、「持ち上げられる」という現象それ自体が、時として国家の判断を誤らせる起点にもなりうる。普通の人間は自分を「無能」な者とみなしたがらない。
称賛が歓迎される時代だからこそ、それを慎重に受け取る思考が必要である。
太公望は『六韜』の中で、こうも記している。
「智者は先を知り、愚者は目前を喜ぶ」
表層の利益や称賛に目を奪われず、なぜ今それが差し出されたのか、誰がどの構造の中で評価しているのかを見抜くこと。それこそが、戦略的主体性を保つ唯一の道だろう。
このような複雑かつ長期的な戦略思考が、紀元前の時代にすでに体系化されていたという事実には驚嘆せざるをえない。いまなお実効性をもつ洞察が、二千年以上前の文献に含まれているというのは、まさに文明の奥深さと知の連続性を感じさせる。この事は我々の思考における盲点を照らしているのではないだろうか。
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