泥の中から、まっすぐに茎を伸ばし、水面にすっと顔を出す蓮の花。その花弁は清らかで、透き通るように美しく、朝に咲いて昼には閉じ、また翌朝に咲くその姿は、静謐と再生の象徴でもあります。
蓮の花言葉には「清らかな心」「神聖」「沈着」などあり、それはただ花の姿かたちからくるものではなく、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という古来の言葉に通じる精神性を映しています。
中国の北宋時代の儒学者、周敦頤は『愛蓮説』で次のように蓮について語っていました。
「水や陸に生える草木の中で、可愛らしい花はたくさんあるが、晋の陶淵明は菊を愛した。李唐の時代以降、世の人々は牡丹を非常に愛好したが、私は、汚れた泥の中から出てきても染まらず、清らかな水に洗われても妖艶にならない蓮だけを愛する。蓮は中が通っていて、外はまっすぐで、蔓のように伸びたり枝分かれしたりせず、その香りは遠くまで清らかに届き、すらりと清く立っていて、遠くから眺めることはできても、むやみに手に取って戯れることはできない」

真実と虚偽がまじりあう中で蓮の花のように在ることは難しいことです。しかし中国では周敦頤が死んでから100年後、中国には岳飛(1103年〜1142年)という人物が現れました。当時、北方の金に攻められ、南に追いやられた宋を守るため、忠義と勇猛さで名を馳せました。岳飛の背中には「精忠報国(せいちゅうほうこく)=誠を尽くして国に報いる」と母親が彫った入れ墨があったと伝えられています。
しかしその忠義ゆえに、岳飛は和平を進めた宰相の秦檜にとって邪魔な存在となり、最終的には無実の罪で処刑されてしまいます。
岳飛は、裏切り・陰謀・政治的腐敗という泥の中に生きた人でした。しかしその生き様は吉田松陰や西郷隆盛などの幕末維新の日本人にも影響を与え「泥に染まらぬ蓮」の生き方は日本人の心をも打ちました。

私たちはみな、どこかの泥の中に立っています。しかし、そこから咲くこともできます。
咲く場所がどんなに濁っていても、心が濁るとは限りません。蓮の花は、今日もどこかで静かに、強く咲いているのです。

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