【ショート・エッセイ】 子規門下の二人

【大紀元日本2月13日】

赤い椿 白い椿と落ちにけり   碧梧桐

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が正岡子規の最期をみとったのは明治35年(1902年)であった。正確に言えば、子規の他の門人たちと根岸の子規庵に交替で寝泊りし、子規の家族とともに看病に当たってはいたが、臨終の瞬間に立ち会ってはいない。その夜、子規庵にいたのは高浜虚子(たかはまきょし)であったが、虚子が異変に気づいた時には、子規はすでに息絶えていた。虚子は、碧梧桐らを呼ぶため、月明かりを頼りに深夜の道を走った。

碧梧桐と虚子は、ともに伊予松山の出身で、松山中学の同級生である。子規から見て、碧梧桐が6歳下、虚子が7歳下にあたる。年齢差だけを見れば同郷の先輩ほどの存在だが、二人にとっては子規は、俳句の師であり、またそれ以上の巨星であった。

明治22年頃、松山へ一時帰郷していた子規のもとへ、碧梧桐は虚子を誘って赴き、以後二人は子規から俳句の指導を受ける。やがて子規門下の双璧となった碧梧桐と虚子は、日本俳句の革新という同じ文学を志す青年として、寝食を共にするほど仲が良かった。

しかし、師である子規の死後、二人は別々の道を歩くことになる。

碧梧桐は、五七五の十七音や季題など従来の形式にとらわれない、いわゆる新傾向俳句の提唱に努めた。この制約にとらわれない新傾向俳句は大正・昭和期の自由律俳句へと続き、「てふてふひらひらいらかをこえた」などで知られる、行乞の俳人・種田山頭火(たねださんとうか)に至ってその極みとなる。

虚子は、碧梧桐のこのような動きを、伝統を破壊するもの見た。

虚子にとって俳句とは、あくまでも花鳥諷詠の定型詩であり、形式を無視しては成立しないものだったのである。大正元年の俳壇誌『ホトトギス』に連載された虚子の「俳句入門」の一節に、次のようにある。

「若し形式に因はれるのを好まぬならずつと俳句を離れて了(しま)うがいい。(中略)余の俳句に対する考は是等の人と全然違つて居る。俳句は形式を先にして生まるる文学である。クラシカルな匂ひを生命とすべきである」

「形式を先にして生まるる文学」と主張する虚子にとっての俳句は、伝統をふまえるという制約上の大前提があった。

虚子は能楽にも造詣が深かったというが、能もまた師承の道であり、伝統を重んじる鍛錬すなわち「稽古」なくしては成立しない厳たる世界である。虚子のそのような個性が、伝統俳句を壊されてなるものかという保守的使命感につながっていると見てよい。

ただ『ホトトギス』主宰者である虚子は、そのことで相当に力んでいたようだ。「春風や闘志抱きて丘に立つ」という彼の一句には、ほとんど挑戦的なほどの姿勢が窺える。

二人の師匠である正岡子規は、自身が没後の二人の対立をある程度予想していたのかも知れない。「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と、二人の愛弟子の個性の違いを、病床六尺から看破していたのである。

(埼玉S)