明治35年(1902)9月19日、東京根岸の子規庵で、近代短歌と俳句の革新に生涯を捧げた正岡子規が永眠する。満35歳になる直前だった。
短い人生だったが、その濃密さにおいては、120年後の日本人である私たちも彼の作品を愛誦するほどであるから、「悔いはなかった」と代弁して良いのではないかと思う。
子規は21歳で初めての喀血をして以来、人生の後半をほとんど病に侵されていた。特に最後の3年間は、結核菌が脊椎を侵すカリエスで寝たきりの状態だった。そんな重病の子規を師と慕って集まった根岸短歌会の門人のなかに、高浜虚子と河東碧梧桐がいた。
子規の没後。河東碧梧桐は、五七五の定型や季語を廃した自由律俳句を提唱する。
これに危機感を抱いた高浜虚子は、俳句はやはり定型であるべきだとして、師の子規にならい、季語と平明な表現による客観写生を旨とすることを主張した。
というのが文学史的な知識なのだが、冒頭の虚子の一句を見ると、どうであろう。
いちおう17音ではあるが、まるで定型ではない。高浜虚子にしては、意外な感がして興味深いのだ。
句意は「雨の気配が迫って来ているようだ。睡蓮が咲くいつもの池が、なにやら暗くなっている」。睡蓮は池や沼などの止水に咲くので、その花の美しさに比べて、水は暗く、総じて黒い感じがする。
睡蓮の池が暗く感じたことから「ひと雨くるな」と見た。晩夏を飾る名句である。
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