【党文化の解体】第7章(1) 日常生活の中の党文化

【大紀元日本5月1日】どの偉大な文明もみな、長い間の蓄積と進化の過程を経てきた。五千年にもおよぶ中華文明の中で、一代また一代と帝王が死に、そのたびに一つの時代が終結していったが、天を敬い神を信じ、民を思いやり物を大切にする価値観はずっと変わっていない。

このような価値観を代々引き継いだ中国の伝統社会には、それぞれの社会部門が存在し、民衆の生存、感情、安全などに対するそれぞれの需要を満たしてきた。政治は社会に奉仕するために存在し、社会は民衆に奉仕するために存在するのであって、その逆ではない。宗教信仰、倫理道徳、風俗習慣など社会面のものは、政治を制約して導く役割を果たしている。政権が正義からかけ離れる時、民衆は社会規則に基づいて政権を矯正することができ、ひいては政権を覆して再建することもできる。孔子の言う「礼失わば野に求む」とは、朝廷が儀礼を失った時は、民間に行って儀礼を探し戻すということだ。健康で活力に溢れる社会は、政権よりはるかに大切である。

中国の伝統文化は深い精神的内包を持つため、中国の伝統社会も健康かつ活力に溢れる社会となっている。健康な社会は健全な智慧を持つ国民を育て、健全な智慧を持つ国民は中国共産党の恐喝と愚弄を受けない。そのため、中国共産党は社会生活の中の伝統文化を根絶して、党文化で取って代わらせる必要があった。

中国共産党の統治の下、中国社会全体が政治社会にされ、政治はまた一元化された。中国共産党は「破壊しなければ建設できない」「大規模に破壊してこそ、はじめて大規模に建設できる」「悪い風俗習慣を改める」「古きを捨て新しきを立てる」と公言して、暴力的手段で中国五千年の古い文明を破壊し、中国共産党の邪悪な遺伝子を受け継いだ党文化を創立した。

暦法と祝祭日、冠婚葬祭、衣食住、家庭、生育の餃子に、「悪い風俗習慣を改める」「古きを捨て新しきを立てる」などの名目で党文化の具を入れる(大紀元)

あまりテレビも新聞も見ないし、勤務先でも政治学習に参加しないので、自分は党文化に汚染されていないと思う人が多くいるかもしれないが、実は、党文化は中国人の生活の隅々にまで浸透しているのである。1949年以降の中国本土に暮らしてきた中国人は、党文化の害毒を受けていない人は一人もいないと言っても過言ではない。

党文化は中国社会を深刻かつ徹底的に破壊した。暦法、祝祭日、冠婚葬祭、衣食住、家庭生活、生育などは、中国共産党の望む形に改変されていた。では、下記の例から生活の中の党文化について検討してみたい。

1.中国の伝統皇暦を「旧暦」もしくは「陰暦」と称し、中国新年を「春節」と称する

今の中国人は伝統的暦法を「旧暦」もしくは「陰暦」と称し、元日を「春節」と称する。「旧暦」「春節」などの呼び方は、明らかに党文化の色を帯びている。呼び方を一つ変えるくらい大したことではないと思われやすいが、数千年の歴史の伝承がそれで断ち切られることになるのだ。

1)中国の伝統皇暦を「旧暦」もしくは「陰暦」と称する

中国人は歴史をたいへん重視しており、中国歴史の記録の詳しさと正確さは同じく古い歴史を持つヨーロッパとアフリカをはるかに越えている。もちろん、中国人が歴史を記録する使命感を強く持っているのが一つの原因だが、さらに重要なのは、歴史を記録する際に中国人は紀年法を使っていた。

簡単にいうと、「歴史」とは「どの年に」「どんな事」が発生したかについての記録である。紀年がしっかりできなければ、歴史編纂の仕事に極めて大きな障害をもたらす。そのため、暦法が統一される前(17世紀~18世紀)までは、ヨーロッパの歴史はとても混乱した状態であった。

中国の伝統的暦法は干支紀年の方法を取っている。いわゆる「干支」とは「天干」と「十二支」の略称で、「甲乙丙丁戊已庚辛壬癸」が十個の「天干」、「子丑寅卯辰巳午未申酉彑xun_蛛vが「十二支」である。紀年は干支の各一文字を順に取って、「甲子」を始まりとして、六十年が一つの循環を成して、永遠に続いていく。干支紀年法を使用したため、数千年経っても中国人は中国の歴史書物の中の紀年を西暦紀年と簡単に対応することができる。

中国人はまた干支で月と日時も記している。言い換えると、干支に天干と十二支の各一文字を含むため、どの時刻も年、月、日、時の干支を使い、八文字で記することができる。例えば2006年6月6日午前6時は、「丙戌年、甲午月、丙寅日、辛卯時」と、この時刻に生まれた人の「生辰八字」はつまり「丙戌、甲午、丙寅、辛卯」となるのだ。

(続く)