【大紀元日本7月2日】
不知香積寺
数里入雲峰
古木無人径
深山何処鐘
泉声咽危石
日色冷青松
薄暮空潭曲
安禅制毒龍
知らず香積寺(こうしゃくじ)。数里、雲峰に入る。古木、人径(じんけい)無く、深山、何処(いずこ)の鐘ぞ。泉声(せんせい)、危石(きせき)に咽(むせ)び、日色(にっしょく)青松(せいしょう)に冷ややかなり。薄暮(はくぼ)空潭(くうたん)の曲(ほとり)。安禅(あんぜん)毒龍を制す。
詩に云う。香積寺はどこなのか。雲をつくような峰の奥へ、もう数里ほども分け入ってきた。老木が生い茂るこのあたりには、人の通る道も絶えた。すると、どこからか聞こえてきた鐘の音が、深山いっぱいに響きわたる。泉の水は、そそりたつ岩にあたってむせぶように鳴り、日の光は、青々とした松を冷ややかに照らしている。夕暮れ時。人気のない潭水のほとりで心静かに座禅を組めば、毒龍をも制するのだ。
盛唐の詩人・王維(699~759)の作。王維は、少年のときから詩文・書画・音楽いずれにも非凡の才を見せ、たちまち長安の王侯貴族の寵児となった。高級官僚として大成してからは、網川荘(もうせんそう)という広大な別荘をかまえ、友人たちを招いて閑適の暮らしを楽しんだ。
そのように、唐代詩人のなかでも理想的といってよい生涯をおくった王維の、深い精神がうかがわれる一首である。
題名の「過」は、いくつかの訓読みがあるが、ここでは尋ねて訪れるという意味で「とう」と読む。香積寺は、長安の東南、終南山のふもとにあった名刹。
この詩の圧巻は、なんといっても最後の一句「安禅制毒龍」である。この毒龍とは、通常、自分の内面にある煩悩・欲望を指すといわれているが、その解釈だけではどうも詩がしぼむ気がする。
自由な鑑賞が許されるなら、毒龍とは「現世の全ての悪」を指し、座禅によって「強大な正念を発し、その悪を制圧する」という、静寂のなかの力強い場面を想像してはどうだろう。
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