【大紀元日本10月2日】鉄分を含んだ赤い土に乳白色の釉、藁灰や木灰の自然釉を通してかすかに土の赤みが残る温かみのある赤膚焼(あかはだやき)の茶碗に抹茶の濃い緑色が映える。茶の湯が起こって以来、赤膚焼の茶碗、茶陶は多くの茶人に愛され、慈しまれ今日に至っている。
赤膚焼は奈良盆地の北西部一帯で焼かれている陶器のことをいう。古くは奈良時代、平城宮や次々に建立される寺の屋根瓦が大量に焼かれ、土器、火鉢なども生産された。良質の陶土を産する丘陵が掘り起こされ、樹木が少なくなり、山の赤い地肌がむき出しになった。そのような山を一般的に赤膚山と呼んだという。
茶の湯が起こると、土風炉が生産されるようになり、名人と呼ばれる陶工が現れる。後に京都に移り千家十職の一家となる、永楽家もその一つである。桃山時代後期、郡山城主となり郡山の商工業の発達を図った豊臣秀長が、赤膚焼を保護し発展させた。豊臣家滅亡後も、茶人、小堀遠州が遠州七窯の一つに加えるほど、全国的に有名な窯となった。
時代は下り江戸時代後期、再び茶の湯の興隆期を迎える。郡山三代城主、柳沢保光(堯山)が陶芸を奨励し、赤膚焼はさらに進化した。奥田木白などの名人が現れたのはこの時代であり、奈良絵を題材にしたシンプルで雅味のある絵付けが施されるようになったのもこの頃からと言われる。
現在、赤膚焼は奈良市と大和郡山市にある6カ所の窯で伝統の技術を生かしながら、それぞれの特長を持ち、新しい時代の創意に満ちた陶器を生産している。
近鉄奈良線の「学園前」駅からバスで南下すること10分、赤膚山に到着する。
現在の赤膚山は静かな住宅地
大塩正さん(撮影・Klaus Rinke)
で、二軒の窯元が風格あるたたずまいを見せている。その一つ「大塩正人(まさんど)」窯の後継者、大塩正さんを工房に訪ねて話を聞いた。1カ月先に迫る「日展」出品の作品を制作中ということであった。
大塩さんが本格的に作陶を始めたのは、大学を卒業してからだという。とは言え「子供の頃は遊び場が工房、遊び相手が職人さんでした」というから、焼き物の中で育ったわけである。大塩さんには、二人の師匠がいる。祖父である七代大塩正人と、現在の当主で父の八代大塩正人である。
正さんが奈良芸術短期大学に入り本格的に陶芸を学び始めた頃、自宅の工房でろくろを挽く練習をして、作ったものを棚に並べておいたという。翌日見ると、それに穴が開けられていた。「祖父が夜工房に入り、使っていたステッキで穴を開けたんです」「そのうち、穴が開けられていない物もあり、どこが違うのかと考えるうちに少しずつ正人窯のやり方が分かってきました」と当時を振り返る。無言の後継者教育だったのだ。
「酒器を作るなら酒を飲まなくてはいけない」と酒を楽しんだ祖父の作ったぐい飲みや徳利は、大きさと言い、手触りと言い実に具合がよかったと大塩さんは言う。茶碗を作るなら、茶の湯を知らなくてはいけないのは道理で、大塩さんは表千家の茶をたしなむ。工房の展示室には大塩さんの茶碗がずらりと並ぶ、作風は実に多様で見ていて飽きない。一つ一つ手にとって説明してくれる大塩さんのまなざしは、愛しいものへ向けるそれで、作品への愛情を感じる。
大塩さんの心をとらえてやまないものは、もちろん茶碗だけではない。20年来、こだわり続けているフォルムがある。「どうしてこんなに美しいのかと調べたら、黄金比なんですね。貝の形は」「特にオウムガイが美しい」と大塩さんは言う。「貝の持つシャープさ、軽やかさ、もろさを陶器で表現したいのです」。「貝から発想する形は無限にあります」ということで、貝へのこだわりはまだまだ続きそうだ。
1986年に日展および日本現代工芸美術展に初入選以来、入選・受賞は多数。「50年前に父が日展の特選を受けて以来、奈良からは工芸部門の特選受賞者が出ていないのです。そろそろ、ほしいですね」と微笑む大塩さん、自信のほどがうかがえる。
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