【原文】
曾子(1)曰:「吾日三省(2)吾身。為人謀而不忠(3)乎?與朋友交而不信(4)乎?傳不習(5)乎?」
【注釈】
(1) 曾子: 姓は曾、名は参(しん)、字は子輿。紀元前505年に生まれ、魯の国の人。孔子の高弟であり、孝子として知られる。《孝経》は彼が著したものと伝えられている。後世の人々は、彼を孔子の学問を継承した「宗聖」として尊んだ。四書の一つである《大学》も、彼とその門徒の手によるものである。
(2) 三省: 省(せい)は、検査する、省みるの意。「三省」には3つの解釈がある。1つ目は、毎日3回自己検査と反省を行うこと。2つ目は、3つの側面から検査すること。3つ目は、何度も検査を行うことである。古代において「三」は動作や行いの頻度や回数が多いことを表し、実際の数字を指すとは限らないためである。
(3) 忠: 他人のために物事を行う際、心を尽くし力を尽くすべきであることを指す。表面上の仕事だけで済ませてはならない。
(4) 信: 人の言を信と成す。信とは誠のことである。口にした言葉は必ず実行に移してこそ誠であり、誠実であることを信という。人々が言行を一致させ、互いに約束を守って初めて、世に立つことができる。
(5) 伝不習: 伝について、古い注釈には「師からこれを受けるを伝と謂う」とある。師が自分に伝授してくれた学問を指す。ここでの学問は技術や技能の類ではなく、曾子が指しているのは道徳的な学問である。師が伝授するものは「道」であり、人間としての仁義の道である。だからこそ後代に「師とは、道を伝え業を授け惑いを解く者なり」という定義が生まれた。師の本質は「道を伝えること」であり、その目的は人々の善良な本性を保つことにある。そして「習」は、「学んで時にこれを習う」の「習」と同じく、師から伝授された仁道を常に実践に移し、真に「知行合一」を達成することを指す。したがって「習」は、現代の教育観念でいう各教科の知識の予習や復習などを指すものではない。
【訳文】
曾子が言った。「私は毎日何度も自分を反省する。人のために尽力するにあたって、心を尽くさなかったのではないか? 友人との付き合いにおいて、誠実で信頼に応えられなかったのではないか? 師から伝授された学問を、実践しなかったのではないか?」
【解読】
「三省吾身」に秘められた天機
本章は「学而篇」の第四章(第四段)であり、ほぼ誰もが知る内容である。曾子のこの「吾日三省吾身」という言葉は、後世の儒生における古典的名言と言える。これを実践できる者は必ず聖賢となる。なぜなら、これは自己の道徳的修養をたえず向上させる内省の方法であり、日々の生活や仕事の中で、師から授かった人の道や道徳規範を常に自分の言動と照らし合わせ、不足や徳に背く点を見つけては修正し続けることができるからである。これにより、自らの品行はより正しくなり、心性の境界(精神的次元)が高まり、君子という完璧な人格へと近づき、さらには智慧が開けてゆく。当然、非常に楽しくなるはずである。これこそが、「学而篇」の冒頭で孔子が述べた「学んで時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや」という学習の境地——「道を楽しむ」ことの達成にほかならない。
常人の境界を超えることを求める古代の修行者や仏道の修煉者から見れば、これは「内修(内面を修める)の法」である。すなわち、自分の心性の正しくない部分を内へ向かって探し出し、異なる仏道の修煉法門が伝えるそれぞれの道徳基準(心法の基準)に従って自らの道徳境界を高めていく内修の方法なのだ。ただ、孔子が伝えたのは「人間」という境界における道徳基準であり、儒家はその基準を「五常(仁・義・礼・智・信)」と規範づけた。一方、仏や道を修める道徳基準はこの境界にとどまらない。その目標は常人を超越し、より高い道徳心性を修めて天人や神仙、さらには三界を超えて輪廻に入らない神仏となることである。それゆえ古代において、儒生がさらに先へ進むと道家の修行者となったのである。

孔子はもともと周代以前の道家文化の継承者であり整理者であったが、常人の道徳を維持することを使命としたため、道家における「入世(世間に入って生きる)」の人間としての部分を語り、老子に何度も教えを請うたのである。李白、王維、蘇軾といった大文豪をはじめ、広く知られる歴代の名人や学者たちもみな同様であった。内面の心性を修めれば、進むほどに高まり、やがて神や仏を修める道へとつながっていく。それに伴い智慧や視野、器の大きさも高まり広がり、その中に喜びを見出すようになる。超常的な道徳境界は人に超常的な智慧や奇跡をもたらすが、不徳な者は智慧が開けないばかりか災いをも招く。したがって古代の教育は「徳を修めて智慧を開く」道を行くものであり、それゆえ古代の科学や医学は非常に神秘的であった。徳の高い者は自然と超能力を得たが、不徳な者はそれを得ることができなかったのである。
つまり、伝統的な「徳を重んじ善を広める」教育とは、心を修める教育、内修の教育であった。俗世に生きる儒家であれ、世を逃れる仏道修行であれ、心を修める内修を要とした。これこそが高次元の智慧を開き、超常的な智慧を得る唯一の道であり、誰にも知られていない天機(天の秘密)なのである。しかし儒家は人としての生き方しか教えないため、修煉を重ねて道徳境界が常人の境界を超えた修行者だけがハッと悟り、『論語』第四章の曾子のこの言葉には実は天機が含まれていると理解するのである。もっとも、迷いを破ることは許されないため、天機を直接常人に告げることはできない。人がただこのように実践し続ければ、時とともに心性が高まり、人の境界を突き破ってすべてが自然と明白になるのである。
実のところ、古代の古典は本来理解しがたいものではない。現代人が知識や技能を学ぶ現代教育の観念で古代の教育を捉え、「道徳教育」こそが古代教育の本質であると知らないがために、「学習」という二文字を誤解してしまうのである。ひとたび「学習」の意味を掛け違えれば、書物全体の理解が崩れ、誤解や歪曲、原意からの逸脱が生じ、原文を真に理解することも実利を得ることもできなくなる。古人がなぜ学ぶことを「楽しい」と感じたのかさえ理解に苦しむことになるのだ。
絶えず徳を修め、智慧を開き、最終的に道を得て迷いを破る。楽しくないはずがない。これこそが、古代教育の真実である。

偽善を避けるための要法
もちろん、曾子の「吾日三省吾身」という言葉は、孔子の前言である「巧言令色、鮮なし仁」という教えに続くものである。したがって、この曾子の言葉は前三章と緊密に関連しており、論理が明晰である。
冒頭で孔子が弟子たちに「仁善の道を喜びをもって学び、常に実践しなさい」と伝え、有子が「そうであるならば、父母や兄を善く扱い敬うことから仁善を実践し、孝悌から始めよ」と述べた。そして孔子が続いて「巧言令色のように、表面上の繕いばかりで言葉巧みに人に取り入り、にこやかな表情を装う行為は内心から発したものではなく、仁善に乏しい」と注意を促し、偽善や不純な動機に基づく行為を警戒するよう戒めた。これを受けて、曾子は毎日の「三省吾身」という実践方法を提示したのである。巧言令色を避けるために。
曾子は3つの側面から展開して語っているが、有子が挙げた孝悌とは異なり、彼の重点は家庭の外にある「社会においていかに他者と接するか」という点にある。「人のために謀る」とは、社会のさまざまな領域において真摯に働き、誠意を持って他人の問題を解決することを指す。現代で言えば、どのような会社に勤めていようとも、自らの本分を全うし、上司や会社のために知恵を絞り、実際の業務処理において真剣に考え、慎重かつ心を込めて仕事を行うことである。これこそが他者への「忠」であり、表面的な仕事に終始したり、ただ巧言令色に終始して機会主義的に立ち回り、名誉や評判をむさぼるような真誠の欠如した姿勢とは対極にある。
仕事以外の友人との付き合いにおいては、言動に信用が伴って初めて人々に認められ、社会に立脚できる。そして最後に、師の教えた道徳基準と自分自身を全面的に照らし合わせ、不足や不適合がないかを確認する。これにより、偽善に陥ったり悪行を容認・放置したり、父母や上司、友人や同僚を諫めることができない状態に陥るのを避けるのである。
このように、『論語』の一言一句はすべて緊密に結びついている。どの句も古典の智慧であり、時空を超えて千年の時を経てもなお、人々に益をもたらし続けているのである。

「半部の論語をもって天下を治む」から語る 論語の真義 序
刻まれた徳育の根幹 論語の真義 学而編1
「孝弟」が社会の根本 論語の真義 学而編2
愛想の良さは「偽善」? 論語の真義 学而篇3
高次元の智慧を開く生き方 論語の真義 学而篇4
「無事」を極める真のリーダーシップ 論語の真義 学而篇5
論語を読み解く鍵 論語の真義 学而編6
真の学問とはなにか 論語の真義 学而編7
「慎重に友人を選ぶこと」の誤解 論語の真義 学而編8
「なぜ歴史を学ぶのか」 論語の真義 学而編9
孔子が諸国を巡った「本当の理由」 論語の真義 学而編10
人材抜擢の真髄 論語の真義 学而編11
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。