孔子が説いた人付き合いの原則 論語の真義 学而編13

2026/08/22 更新: 2026/08/19

【原文】

有子曰:「(1)近於(2),言可(3)也;恭近於禮,遠恥辱也;(4)不失其(5),亦可(6)也。」

 

【注釈】

(1) 信(しん):約束を守ること、誠実であること。言ったことに責任を持ち、自分の約束をきちんと果たすことを指す。ここでいう「信」は「義」にかなっていることが必要である。

(2) 義(ぎ):物事にかなっていること、正当な道義。人の言動が正しい原則や、善悪・是非の基準にかなっていることを指す。

(3) 復(ふく):履行すること、実行すること。自分がした正当で適切な約束を、実際に果たすことを指す。

(4) 因(いん):頼ること、親しくすること、信頼すること、よりどころとすること。人と人との付き合いの中で自然に生まれる、親しみや頼り合う関係を指す。

(5) 親(しん):親しい人。また、人と人との間に自然に生まれる親疎の関係や、親愛の情を指す。

(6) 宗(そう):尊び従うこと、信頼して従うこと。よりどころとして頼り、手本として見習うことができる、という意味。

 

【訳文】

有子は言った。「約束を守るには道義にかなっていることが大切であり、道義にかなった約束であってこそ、実際に守り、果たすことができる。人に対して恭しく接するにも礼にかなっていることが大切であり、相手を尊重しながらも節度を失わなければ、自ら恥や屈辱を招くことを避けられる。人と人とが付き合っていれば、自然と自分がよく知る親しい人に近づき、信頼し、頼るようになる。そのような関係の中でも、本来守るべき原則や道義を失わないのであれば、その親しみや信頼もまた従うに値するものであり、人から信頼され、尊重されるに値するのである。」 

 

【解説】

これは『論語・学而篇』第十三章である。有子は「信、義に近ければ、言、復むべきなり。恭、礼に近ければ、恥辱に遠ざかるなり。因ること、その親しきを失わざれば、また宗ぶべきなり」と述べている。

 

礼の働きとは、人と人との関係を調和させ、家庭を和やかにし、社会に秩序をもたらし、最終的には天下の調和へとつなげていくことである。(Shutterstock)

この章は、前章の内容を受けて続いている。前章で有子は「礼の用は、和を貴しとなす」と説いた。礼の働きとは、人と人との関係を調和させ、家庭を和やかにし、社会に秩序をもたらし、最終的には天下の調和へとつなげていくことである。

しかし、「和」は尊いものである一方、日々の人付き合いの中では最も節度を失いやすいものでもある。人間関係を保つために、何でも引き受けてしまうことがある。相手に気に入られようとして、必要以上にへりくだってしまうこともある。また、家族への情や友人との友情を大切にするあまり、正しい判断を失い、身内びいきに陥ってしまうこともある。

そこで有子は、誰もが日々避けることのできない人間関係の問題から説き始め、弟子たちに「礼」を具体的な生き方の中でどのように実践すべきかを教えている。人への情を大切にしながらも「義」を失わず、人との「和」を求めながらも、守るべき道徳的な原則や一線を失わないこと。それこそが、人と人とが正しく付き合っていくために大切なのである。

 

約束は守るべきだが、「信」のために「義」を失ってはならない

「信、義に近ければ、言、復むべきなり。」

人と人とが付き合ううえで、最も大切な基礎の一つが「信」である。親が子どもに約束したことは、できる限り果たすべきである。友人同士も、互いに約束を守るからこそ信頼関係を築くことができる。商業社会ではなおさらであり、信用の有無は、その人が社会の中で確かな立場を築けるかどうかに直接関わることも多い。

人と人とが付き合ううえで、最も大切な基礎の一つが「信」である。(Shutterstock)

だからこそ、「信」はもちろん大切である。しかし有子は、「信」は必ず「義」にかなっていなければならないと強調している。なぜなら、すべての約束が必ず守るべきものとは限らないからである。

もし誰かを傷つけることや、金銭を奪って人の命まで害すること、あるいは道徳に反することをすると約束してしまい、後になってそれが間違っていると気づいたとする。それでも「約束を守るため」という理由で、そのまま実行すべきなのだろうか。当然、そのようなことをしてはならない。

「義」にかなわないことであれば、そもそも約束すべきではない。もしそのとき十分に考えずに約束してしまったとしても、後になって道義に反していると気づいたのであれば、そこでやめ、その理由をきちんと説明すべきである。

つまり、本当の意味で約束を守るとは、善悪や是非を問わず、何があっても「言ったことは必ず実行する」ということではない。「義」にかなった約束であってこそ、揺るがずに守り抜くべきなのであり、「義」に反する約束であれば、実行してはならないのである。

これは、前章の「和を貴しとなす」をさらに一歩深く説明したものでもある。人と人とは、もちろん仲良く調和して付き合うことが大切である。しかし、ただ「和」を保つことだけを目的として道義を捨ててしまえば、その「和」はすでに「礼」の根本を失っている。「和」にも「義」がなければならないのである。

 

人には恭しく接するべきだが、尊厳を失ってはならない

「恭、礼に近ければ、恥辱に遠ざかるなり。」

人と人とが付き合ううえで、最も基本的な礼儀は相手を尊重することである。人を軽んじるような態度を取れば、相手を傷つけて関係を損ない、争いや対立を招きやすくなる。反対に、相手に対する恭しさを心得ていれば、人間関係も自然と穏やかで調和したものになりやすい。

しかし、その「恭しさ」もまた「礼」にかなっていなければならない。自分の利益のために権力や地位のある者に卑屈な態度を取り、へつらい、お世辞を並べるのであれば、一見すると恭しく見えても、実際にはすでに守るべき原則を失っている。また、必要以上にへりくだり、自分の立場や分を越えて振る舞うことも、同じように礼を失うことになる。

これは、先に孔子が述べた「巧言令色、鮮なし仁」という戒めにも通じている。

本当の恭しさとは、自分を低くすればするほどよいというものではない。相手を尊重すると同時に、自分自身も守ることである。人には礼をもって接しながらも、自らの立場や尊厳、守るべき原則を失わない。そのようにして初めて、「恥辱から遠ざかる」ことができるのである。

したがって、前章の「礼の用は、和を貴しとなす」とは、人との和を保つために、ひたすら相手の機嫌を取り、迎合せよという意味ではない。人との調和を大切にしながらも、その中で「義」と「礼」を守ることが大切なのである。「和」のために「礼」を失ってはならないのである。

 

人を親しく信頼することと、親疎の情を捨てることは別である

最後の一句は、「因ること、その親しきを失わざれば、また宗ぶべきなり」である。この一句は、とりわけ単純に解釈されやすいところである。

ここでいう「因」は、頼ること、親しくすること、信頼すること、よりどころとすること、と理解できる。人はこの世で生きていく以上、まるで情を交えない裁判官のように、誰を選ぶ場合にも冷たい基準だけで判断することなどできない。

因ること、その親しきを失わざれば、また宗ぶべきなり(Shutterstock)

人は自然と自分の父母や兄弟に親しみを感じ、よく知る友人を信頼する。何かあったときにも、まず自分がよく知り、理解し、信頼している人を頼ろうとするものである。これは人として自然な感情であり、人と人とのつながりによって社会が成り立つうえでも大切な基礎である。

したがって、孔子は人に親子や兄弟の情、あるいは友情を完全に捨てるよう求めているのではない。まして、友人や協力相手を選ぶとき、さらには人材を登用するときにまで、自分にとっての親しさや疎遠さ、好き嫌いといった感情をすべて排除せよと求めているわけでもない。

本当に注意すべきなのは、親しい人とは親しくしてよく、信頼できる人は信頼してよく、頼れる人には頼ってよいが、その親しさゆえに「義」や「礼」を失ってはならないということである。

相手が身内だからという理由で、間違っていると分かっていながらかばい続ける。友人だからという理由で、関係を守るために不義な行いに手を貸す。ある人を信頼しているからという理由で、守るべき原則をまったく顧みなくなる。これこそが「根本を失う」ということである。

反対に、前に述べた二つの節度、すなわち「信において義を失わず、恭において礼を失わない」という原則を守ることができるのであれば、自分と親しい人と付き合い、よく知る人を信頼し、さらには自分がよく理解している人を優先して登用すること自体に問題はない。人には感情があり、親しい人とそうでない人がいる。それはもともと人として自然なことだからである。

聖人の教えとは、すべての人に感情を捨てさせ、誰もが感情に左右されない「聖人」になることを求めるものではない。そうではなく、情があっても情に目を曇らされず、親しい人がいても公正さや道義を失わず、人を信頼しても自ら判断する力を失わないことを教えるものである。そのようにできれば、「親しさ」は私情につけ込まれる隙になるのではなく、むしろ人と人との関係をより和やかで確かなものにすることができる。

したがって、「また宗ぶべきなり」とは、このように理解することができる。親しい人を大切にする人情を持ちながらも、「義」や「礼」という守るべき原則を失わない。そのような人であれば、自然と人から信頼され、尊重され、また人々が信じて従い、手本とするに値するのである。

 

「礼の用」から、人の心を修めることへ

このように第十二章と第十三章を改めて見てみると、二つの章のつながりがはっきりと見えてくる。

第十二章では、「礼」の働きは「和」を貴ぶことにあると説いている。そして第十三章では、そこからさらに一歩進んで、では人が日々他者と付き合う中で、どのようにすれば「和」を保ちながら、守るべき原則を失わずにいられるのかを説いている。

その答えが、約束を守る「信」は「義」にかなっていなければならず、人に対する「恭しさ」は「礼」にかなっていなければならず、人を親しく思い、信頼し、頼るときにも、人として守るべき根本を失ってはならない、ということである。突き詰めれば、ここで説かれているのも、やはり自らの心を修めることである。

『学而篇』冒頭の「学びて時にこれを習う」から始まり、孝悌や仁愛を家庭の中で実践すること、さらに「終わりを慎み、遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す」と説くこと、そして孔子が君主に徳のある政治を勧め、「礼」によって天下の人々を教え導くことまで、一見すると個人の生き方から始まり、次第に国家のあり方へと話が広がっているように見える。しかし実際には、そのすべてに一貫して流れている根本は変わっていない。

家庭にあっても、社会にあっても、国家にあっても、人は常に自らの心を正し、日々の具体的な人間関係の中で、学んだ徳を実践していかなければならないということである。

だから聖人の教えは、人に感情を持つなと説くものではなく、情の中にも「義」を持つことを教えるものである。人との親疎をなくせと説くのではなく、親しい人とそうでない人がいる中でも、守るべき原則を失わないことを教えている。また、ひたすら「和」だけを求めよというのではなく、「礼」と「義」を守りながら「和」を求めることを説いているのである。

これこそが、「礼の用は、和を貴しとなす」という教えを、日々の人生の中で実際に行う姿である。

信には義があり、恭しさには礼があり、親しさには節度がある。人としての情と義を大切にしながらも、その根本を失わない。そのような人であってこそ、真に他者と調和することができ、その和やかな関係を長く保つことができるのである。

 

先王の道は、なぜ「礼」によって「和」を求めたのか

有子は続けて、「先王の道、これを美となす」と述べている。ここでいう「先王」とは、孔子が生涯にわたって敬い、理想としていた古代の聖王たちのことである。

孔子が常に礼楽を重んじたのは、単に古代の儀式や形式を懐かしみ、それを復活させようとしたからではない。その本当の目的は、先王たちが天下を治めた根本的な原則を取り戻すことにあった。古代の聖王たちが天下を治めるとき、すべての人を同じようにしようとしたのではなく、一人ひとりがそれぞれの立場に安んじ、それぞれが担うべき責任を果たせるようにしたのである。

君主は仁愛をもって民を慈しみ、臣下は忠実に自らの務めを果たす。父母は子を慈しみ、子は親を敬い孝を尽くす。年長者は後の世代をいたわり、年少者は年長者を敬う。それぞれが自らの守るべき道に従いながら、互いに「礼」をもって接する。このようにすれば、社会には上下、長幼、親疎の違いがあっても、その違いによって争うのではなく、秩序の中で互いを尊重することができる。

したがって、先王の道が「美しい」とされるのは、違いの中に秩序を築き、その秩序の中で調和を実現することができるからである。

「徳」は、人の内面にある根本である。「礼」は、その徳を人と人との関係の中で具体的に実践するための規範である。そして「和」は、「礼」が実践された結果として生まれる、理想的な社会のあり方である。

徳があっても礼がなければ、徳は高尚な理念のままにとどまりやすい。実際にさまざまな人間関係や人付き合いの場面に直面したとき、どのような言葉や行動によって、その徳を具体的に表せばよいのか分からなくなってしまう。一方で、礼があっても徳がなければ、礼は中身を失い、表面的な形式に流れやすくなる。徳と礼が互いに支え合ってこそ、真に調和のとれた秩序ある社会を築くことができるのである。

いくら心に「徳」があっても、「礼」を知らなければ、徳は頭の中の高尚な理念にとどまり、日々の人付き合いの中でどう行動や言葉に表せばよいか迷ってしまう。反対に、「礼」の形式だけを整えても「徳」という中身が伴わなければ、それは形骸化したお世辞や見せかけに過ぎない。徳という内面と、礼という実践の双方が揃って初めて、徳と礼が互いに支え合い、真に調和のとれた秩序ある社会を築くことができるのである。

 

なぜ「和」だけではなく、「礼」によって節度を保つ必要があるのか

有子は最後に、こう戒めている。「小大これによるも、行われざる所有り。和を知りて和するも、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。」

大事であれ小事であれ、ただ「和」だけを求め、何事につけても人の機嫌を損ねないことや、衝突を避けることばかりを優先すれば、かえって本当の意味で問題を解決できなくなることがある。

親に過ちがあれば、子は表面的な和やかさを保つために、ただ従い続ければよいわけではない。君主が徳を失えば、臣下も表面的な安定を保つために、諫めることを恐れて黙っていてはならない。友人が過ちを犯したときも、関係が悪くなることを恐れて、何も言わずに見過ごしてよいわけではない。

本当の「和」とは、異なる意見が存在しないことではない。意見が異なっていても、「礼」と守るべき原則を失わず、道理に基づいて意見を交わし、徳をもって相手に接することである。

有子は最後に、こう戒めている。「小大これによるも、行われざる所有り。和を知りて和するも、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。」(Shutterstock)

だから孔子は、また「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と述べている。君子は「和」を求めるが、すべての人が同じ考えになることを求めるわけではない。なぜなら、「和」とは異なるものを調和させることであり、「同」とは、場合によってはその違いそのものをなくしてしまうことだからである。

ただひたすら相手に自分と同じであることを求めれば、表面上は衝突がないように見えても、実際には対立や矛盾を見えないところに押し込めているだけかもしれない。真の君子は、異なる考えや立場が存在することを認め、その違いの中にあっても「礼」と「徳」を守ることができるのである。

したがって、原則のない「和」は、相手への迎合に陥りやすい。節度や境界のない「和」は、相手の過ちまで許してしまうことにつながりやすい。そして秩序のない「和」は、最後にはかえって混乱を招く可能性がある。だからこそ、「礼」は「和」と対立するものではなく、「和」が成り立つために必要な節度と境界なのである。これこそ、有子がまず「礼の用は、和を貴しとなす」と説きながら、続けて「礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり」と特に戒めた理由である。

孔子が求めたのは、決して表面的な平穏ではない。原則のある「和」、秩序のある「和」、そして徳に支えられた「和」なのである

 

結び

このようにして『学而篇』のこれまでの章を振り返ると、この章が、それまで説かれてきた思想をさらに一歩先へと進めていることがわかる。

「学びて時にこれを習う」とは、徳を修めるためである。孝悌や忠信は、その徳を日常生活の中で実践することである。「終わりを慎み、遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す」とは、一人ひとりの徳によって社会の風紀をより良いものにしていこうとする考えである。孔子が諸国を巡り、各地で政治について尋ねたのは、君主に徳のある政治を行ってもらうためであった。そして「父在せばその志を観、父没すればその行いを観」とは、真に天下の責任を担うことのできる人間は、まず自らの徳が試され、それに耐えられる者でなければならないことを示している。

そしてここで有子は、さらに一歩進んで教えている。たとえ一人ひとりに徳があったとしても、人と人との関係を整える「礼」がなければ、真に調和のとれた社会を築くことは難しい。だからこそ、「徳」と「礼」は切り離すことができない。

徳は根である。礼は人と人との関係を整える具体的な規範であり、徳が外に現れた形である。そして和は、その先に実る果実なのである。

 

劉如
文化面担当の編集者。大学で中国語文学を専攻し、『四書五経』や『資治通鑑』等の歴史書を熟読する。現代社会において失われつつある古典文学の教養を復興させ、道徳に基づく教育の大切さを広く伝えることをライフワークとしている。
関連特集: 百家評論