【漢詩の楽しみ】 泊秦淮(秦淮に泊す)

【大紀元日本11月13日】

煙籠寒水月籠沙
夜泊秦淮近酒家
商女不知亡国恨
隔江猶唱後庭花

煙は寒水を籠(こ)め、月は沙(すな)を籠む。夜、秦淮(しんわい)に泊(はく)して、酒家(しゅか)に近し。商女(しょうじょ)は知らず、亡国の恨み。江を隔てて、猶(な)お唱(とな)う後庭花。

詩に云う。夕もやが、冷え冷えとした水面にたちこめ、月光は岸辺の砂を照らしている。今宵は、この秦淮河に船泊まりする。川の両岸の料亭にも近い。すると、向こう岸の料亭の妓女たちが、昔ここに都があった陳王朝の亡国の恨みがこもる調べだとは知らずに、玉樹後庭花(ぎょくじゅこうていか)の歌をうたっている。

晩唐の詩人、杜牧(803~852)の作。

隋が中国全土を統一する前、江南地方に宋・斉・梁・陳という四つの王朝が、それぞれ数十年ほどの短命ながら興った。いわゆる南朝である。これに先立つ呉と東晋を加えて、六朝(りくちょう)と称する場合もある。

武力では北方の騎馬民族国家にはるかに劣っていた南朝だが、老荘思想や仏教、詩文などは大いに発展したので、これを六朝文化と呼ぶことも多い。

さて、詩中の「亡国の恨み」とは何を指すか。

南朝最後の皇帝であった「陳の後主」は、暗君の典型であった。

政治を全く顧みず、歌舞音曲に連日うつつを抜かして国を滅ぼしたこの人物は、隋軍が宮殿に乱入してきた際、自身の名誉を守るための自害もできず、枯れ井戸の中に隠れていたところを見つかってしまう。前王朝の皇帝ならば処刑されるのが通常だが、この捕虜にその処断は下されず、なんと余生を全うする。

それゆえの「亡国の恨み」とは、当時、暗君に仕えた遺臣から庶民に至るまでの、現実味のある叫びであっただろう。

作者のいた晩唐という時代にも、唐王朝終焉へ向かう一種の「空気」があった。それをこの一首から読み取るのは少々難しいが、晩唐詩の秀作であることは間違いない。

(聡)