【漢詩の楽しみ】 春 暁(しゅんぎょう)

【大紀元日本3月31日】

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず。処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く。夜来、風雨の声。花落つること知る、多少ぞ。

詩に云う。春の眠りの心地よさに、つい夜の明けたのも気づかずに寝過ごした。外では、春らしい小鳥の鳴く声が聞こえている。そういえば昨夜は、風雨の音がはげしかったなあ。その雨風で、どれほど花が散ったことだろう。

作者は盛唐の詩人、孟浩然(もうこうねん、689~740)。科挙に及第することはなく、生涯放浪の身であった。しかし、彼の詩文の才が非凡であったからであろう。大官である王維張九齢と親交を結び、また李白からは敬慕を込めた詩の数々が贈られている。

有名な一首であるので解説する必要はないが、有名であるがゆえに、鑑賞の方法が画一化しているようにも思える。この詩のテーマを「惜春の情」とする日本の解説書を見た覚えがあるが、どうであろうか。花が散ったから惜春というのは、日本人の平安文学好みが入っているようで、いささか同意できない。

むしろこの一首の醍醐味は、主人公の超越的な心境にあるとみたほうがよい。そこに浮かぶのは、宮仕えもせず、春の朝の眠りをむさぼる高士の姿である。

視覚の全てを排除して、ただ聴覚と気配だけで描写する表現力は、確かに秀逸である。なによりこの詩には、花を見てやたら涙を流す杜甫のような湿っぽさがない。

その一方で、立身出世なんか目じゃないよとわざわざポーズをとって詩に詠うところは、実は世俗的な未練も少し残っているようで、なんとも愛らしい気がしないでもない。

ところで、この詩のなかで風雨に散った春の花というのは、何の花であろうか。確証はないが、おそらく桃の花であろう。地面に落ちた淡紅色の花びらは、読者の想像のなかで、さらに美しい詩の余韻となっている。 

(聡)