【漢詩の楽しみ】 十五夜望月(十五夜に月を望む)

【大紀元日本9月16日】

中庭地白樹棲鴉
冷露無声湿桂花
今夜月明人尽望
不知秋思在誰家

中庭(ちゅうてい)地白く、樹に鴉(からす)棲む。冷露(れいろ)声無く、桂花(けいか)を湿(うる)おす。今夜、月明(げつめい)人尽(ことごと)く望むも、知らず、秋思(しゅうし)の誰(た)が家にか在る。

詩に云う。中庭の地面は月明かりで白く輝き、樹上の巣にはからすが休む。冷ややかな露が音もなく結んで、木犀(もくせい)の花を潤おしている。今宵は中秋の名月。人々はみな、この明るい月を眺めていることだろうが、はて、秋夜の思いにふける君は、一体どこの家にいることだろう。

作者は中唐の詩人、王建(おうけん)。生没年ははっきりしないが、韓愈(かんゆ、768~824)の親友であったことから、ほぼ同年代であったとみられる。

漢詩には一つの定番がある。多くの親しい人々が集う節句や特別な日に、一人その場にいない親友を思いやりテーマとするものである。

この詩も、それに属する一首とみられるのだが、「秋思」の主語を誰ととるかによって鑑賞の仕方がいくぶん変わってくるところが興味深い。

とりあえず、秋思の主語は「作者の親友」とみてよいだろう。ただ、見方によっては、「秋の夜の思いにふける私は(親しい人々から離れて)どこで名月を眺めているのだろう」という作者の自問ともとれるのだ。

類例として、王維の名作「九月九日憶山中兄弟」がある。時は重陽の節句、高台に集う故郷の親族たちに一人欠けていることで、異郷にある自身の思いを描く。

鑑賞する側の好みからすれば、王建のこの詩の妙を、作者が自己を客体化した「自問」ととりたい気がする。今宵の月を仰ぎながら、異郷にいる自身に向かい「おまえは一体どうしてこんなところにいるんだい」と語りかける作者、というのはいかがだろう。

今年の中秋の名月は9月19日。晴れて静かな一夜になればいい。 

(聡)