明の時代に、舒芬(すうふん)と言う人がいた。12歳の時に知府(今の知事に相当)に書を献上するため《馴雁賦》を書き上げ、博識者として名を馳せた。正徳十二年(1517年)、壮元(科挙における成績最優秀者)を取り、翰林院修撰の官職に就き、国史の編纂に従事した。時の皇帝・明武宗は理不尽なことを言い、常軌を逸した行いをするため、剛直な舒芬は朝廷の大臣たちと共に明武宗を諫めることがあったが、その度に処分された。正徳十四年、舒芬はまたもや武宗へ直言したことにより、宮殿の階段下でひざまずくこと5日間、棒たたき30回を受け、地方へ左遷されてしまった。その後も、彼は同様の行いにより、投獄された。
舒芬が翰林院に務めていた頃、彼の息子は、隣家の塀が我家の敷地に毎年少しずつ侵入してきており、我家の利益が損なわれているのでどうしたらいいのかと舒芬に何度も手紙を送って不満を訴えた。すると舒芬は、息子からの手紙の最後に詩を一首付け加えて送り返した。
幾度もの家書は壁のみ訴え
数尺を譲っても良いではないか
始皇帝は先年の計画を立てたが
今や城壁があっても王はいない
舒芬は、この一首を書いて土地の奪い合いを止めるよう諭したつもりだったが、息子は父親の気持ちを察することができず、軟弱な父に失望して手紙を捨ててしまった。
その後、捨てられた手紙は隣人に拾われた。詩を読んだ隣人は舒芬の寛容さに感動し、自ら造り足した塀を取り壊し、占有した敷地を舒氏の息子に返すことにした。それからは隣同士で譲り合い、いざこざを起こすこともなく仲良く暮らしたという。
これと同様の別の時代の逸話が伝わっている。古代(一説には清の時代)、朝廷に仕える宰相の実家の敷地が他人に占有されてしまい、家の者は何とかして欲しいと宰相に書簡を宛てた。手紙を受け取った宰相は、詩を一首書いて返信した。
千里を渡った書簡は壁のことのみ
三尺を譲っても良いではないか
万里の長城は今なお残っているが
始皇帝だけは誰も見かけないのに
家族は宰相の詩を読むとはっと悟り、隣家に敷地を三尺ほど譲ることにした。隣人は心の広い宰相一族の行動に感激し、自分たちも三尺の土地を譲った。二家族が譲りあった土地は六尺の路地となり、後に「六尺路地」として広く知られるようになった。
(翻訳編集・蘭因)
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