嫁は顔よりも性格
古代の中国の子どもが習ったという「三字経」。その儒教の教えの中に、君臣の義(ぎ)、父子の親(しん)、夫婦の順(じゅん)という三網(さんこう)が出てきます。この三つの人間関係が調和していれば、幸せな人生を送ることができると説かれていますが、それは現代にもあてはまるでしょう。今回は、古代の君子が賢い嫁と「夫婦の順」を築いた物語をご紹介します。
魂は引き継がれていく
輪廻転生(リーインカーネーション)――肯定するにしても否定するにしても、人びとを引き付ける永遠のテーマではないでしょうか。児童精神科医でもあるアメリカ合衆国ヴァージニア大学のジム・タッカー博士は、「脳や肉体の死後も意識は生き残り続ける。意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に張り付いてく」といった見解を述べています。断言は出来ませんが、「意識」よりも、むしろ『魂』と東洋では捉えているのではないか――と思います。そこで、中国清朝時代のお話を一つご紹介します。
【故事】人材を見るには私心を交えず
古代から現代まで、リーダーになる人には必ず敵がいるものです。でも、敵の良いところを認め、その人を重要なポストに推薦できる人というのは、滅多にいないかもしれません。私心を交えず、人材をうまく使いこなしたチー・シーという政治家をご紹介します。
本当の宝とは
中国の戦国時代(475–221 B.C.)の頃のお話です。ジン・ホウ(Jing Hou)という高官が魏の国の王子を訪れました。ジン・ホウは、この日のために、特別にしつらえた豪華な服を身に付け、腰には光輝く石が埋め込まれた刀剣を差し、肩には宝石で飾られた首飾りをぶら下げていました。国宝級の装飾品を身に付けた彼は、誇らしげに魏の宮殿に入っていきました。
【物語】塩漬けの魚
陶侃(とうかん)という男性が、地方官として赴任していた時のことです。彼は漁業の管理をする役人でした。ある日、陶侃は人を遣わせ、地元名産の塩漬けの魚を母親の元へ届けさせました。魚が好きな母親が、きっと喜ぶだろうと思ったのです。
【物語】母親に尽くした男
宋という時代の頃のお話です。黄庭堅(こう・ていけん)という非常に母親思いの男がいました。彼は位の高い役人でしたが、母親の事になると、大事小事にかかわらず全て自分が面倒をみて、決して使用人に用事を申し付けたりしませんでした。
知性も才能もまるでなし 大金持ちになったわけは?
清の時代、ある大金持ちがいました。彼には特に優れた知性も商才もなく、口下手でしたが、お金がどんどん入ってくるので、周りの人たちは不思議に思っていました。また、普段からさほど健康に気をつけている様子もないのに、病気にかかったことがありませんでした。時に災難に見舞われることがあっても、いつもどうにか解決し、難から逃れることが出来ました。
項羽に立ち向かう男の子 町の人々を救う
秦の末期、項羽は激戦の末、ようやく劉邦の家臣・彭越将軍に勝ち、「外黄城(現河南省)」を攻め落としました。気性の荒い項羽は、自分に反抗した城の住民への戒めとして、15歳以上の男性を拘束し、全員生き埋めにしようと準備を進めていました。
親孝行できぬ者は官位に就くべからず
唐の時代、李皋(りがお、733~792年)が温州に在任していた時のことです。李が視察に出かると、年配の婦人がさめざめと泣いているのを見かけました。不憫に思った李は、婦人になぜ泣いているのかと聞きました。婦人は、「私には二人の息子がおります。名前は、李鈞(りじゅん)と李锷(りあ)です。息子たちは功名富貴を求めて故郷を離れ、二十数年も経ちましたが、一度も家に帰って来たことがありません。今の私は、たった一人で貧乏暮らしを送っています」
恨みに報いるに徳を以ってす
唐の時代、太宗が皇帝だったころのお話です。宦官の魚朝恩(ぎょ ・ちょうおん)は、輝かしい戦績を持つ武将・郭子儀(かく・ しぎ)に嫉妬していました。魚氏は郭氏の悪口を言いふらし、ついには郭氏の先祖の墓を掘り返してしまいました。
【物語】親孝行の子路(しろ)
孔子の弟子の中に、子路(しろ)という弟子がいました。子路の家族は、とても貧乏で、肉と魚が食べられるのは、特別な日だけでした。その他の日は野草を食べ、お腹を満たしていました。貧しい両親を助けるため、子路は百里離れた市場へ行って米を買い、道端の野草を摘んで帰りました。子路は持ち帰った野草を煮て、親のために食事の用意をしました。
口蜜腹剣(口では甘いことを言いながら、腹に剣を隠している)
裏切り、中傷、権力争い…陰謀の渦巻く中国の王朝には、数多くの賢人や英雄がいる一方、ずる賢い佞臣もたくさん登場します。狡猾なやり方で多くの政敵を失脚させた人物をご紹介します。
誘惑に打ち勝ち、幸運が舞い込む
昔、子供たちがこっそりいたずらをすると、「お天道さまが見ていますよ」と祖父母からたしなめられたものです。
怨恨を水に流す
隋王朝の末期、杜如晦(とじょかい)は叔父の杜淹(とあん)と共に、当時割拠していた群雄のひとり、王世充(おうせいじゅう)に仕え、唐軍と戦った。
嘘を書き続けた官僚
誰もが気軽に文章を発信できる現代のネット社会。便利な側面がある一方、悪口や誹謗中傷のコメントも目立ちます。
命を救った公明正大な判事
元朝(1271 – 1368 AD)の頃、現在の福建省がある山奥には盗人が多く出没し、村は荒れ果てていた。辺鄙な場所にあるこの地域には中央政府の目が行き届かず、官僚たちは好き放題に暮らしていた。
教師への警告
小さい頃によく読んでいた日本の民話の本。まじめで正直な者には善い報いが、怠けものや嘘つきには悪い報いがあることを、幼心に感じました。中国古代の小説にも、因果応報の話が多いようです。今日ご紹介するのは、清代の奇談集からの一遍です。
赤子を救った書生
昔、浙江省寧波市に袁道済(えん どうさい)という書生がいた。彼は非常に貧しく、科挙の試験が行われる都へ行くこともままならなかったので、親戚や友人たちが彼のために旅費を工面してやった。
都へ行く途中、袁は道端に捨てられている赤ん坊に気づいた。そのまま通り過ぎることはできず、近くの豆腐屋の夫婦に所持金を渡して赤ん坊を託した。
真に民衆のことを考えた政治家
真面目で勤勉だった司馬光は、中国北宋の儒学者であり、政治家でもあった。 仁宗皇帝は自分が亡くなる前、国有財産から忠実な大臣たちへ褒美を与えるよう命令を下した。司馬光も、褒美を授かる大臣の中の一人だった。
真に価値があるものとは
墨子(ぼくし)は戦国時代の思想家である。「兼愛(博愛主義)」と「非攻(非戦論)」を説いて全国を遊説し、当時の儒家と同じくらい名声を馳せていた。ある日、楚王が墨家の弟子の田鸠氏に尋ねた。
田氏は答えた。「例をあげましょう。昔、秦穆公(しん ぼくこう)は、娘を晋国の王子に嫁がせようとした時、娘より付き添いの侍女らに綺麗な格好をさせました。すると、晋国の王子は娘ではなく侍女を気に入ってしまいました。また、ある宝石商
裁判官のはなし
宋の時代、黄という高官のもとに、袁州から2人の友人が訪ねてきた。話をしているうちに、2人は黃に袁州へ一緒に行こうと誘った。黄は固く断ったが、友人たちが強く勧めてくるので、仕方なく一緒に行くことにした。
質素な宰相
春秋時代、魯の国(現在の山東省)に李文子(り・ぶんし)という宰相がいました。李文子の家は非常に裕福でしたが、当時の高官としてはめずらしくその暮らしは質素なものでした。
三尺の土地を譲った隣人
明の時代に、舒芬(すうふん)と言う人がいた。12歳の時に知府(今の知事に相当)に書を献上するため《馴雁賦》を書き上げ、博識者として名を馳せた。正徳十二年(1517年)、壮元(科挙における成績最優秀者)を取り、翰林院修撰の官職に就き、国史の編纂に従事した。時の皇帝・明武宗は理不尽なことを言い、常軌を逸した行いをするため、剛直な舒芬は朝廷の大臣たちと共に明武宗を諫めることがあったが、その度に処分された。正徳十四年、舒芬はまたもや武宗へ直言したことにより、宮殿の階段下でひざまずくこと5日間、棒たたき
忠実と信義でこの世を渡る
孔子が衛国から魯国に帰るとき、大きな川に阻まれて進めなくなった。その川は水深数百メートルと言われ、大きな渦を巻きながらほとばしる水の中では生き物も生息できないという。
高枕無憂(こうちんむゆう)
「高枕無憂」とは、枕を高くして、ぐっすり眠り、心配事がないということ。せわしない世の中、なかなかそのような境地にはなれませんが、中国戦国時代の故事が、その秘訣を教えてくれるかもしれません。
十羊九牧(じゅうようきゅうぼく)
十匹の羊に、九人の羊飼いがいること。官僚が多すぎて、効率が悪いことの例えです。国や組織を運営するには、リーダーが多すぎると混乱をきたします。時代が変わっても、それは同じですね。
諸葛孔明――その妻は本当に醜かったのか【千古英雄伝】
古代中国では、結婚式の際に花嫁が「紅蓋頭(ホンガイトゥ)」と呼ばれる大きな赤い頭巾をかぶる習慣がある。実は赤い頭巾を最初に使った女性は諸葛孔明の妻・黄月英であるという言い伝えがある。
手柄を君主に捧げる名宰相
春秋時代の斉の君主・斉景公は大規模な建築物を建てることを決め、多くの民衆は朝から晩まで働かされた。真冬になり、寒さが厳しくなっても工事は停止することがなく、民衆の不満は高まっていた。民衆は宰相・晏子(イェン・ツ)が斉景公へ進言することを期待し、外遊からの帰国を待ち望んでいた。
天災に見舞われた村
昔、中国のある峡谷地に、多くの人々が平和に暮らす作物の豊かな村があった。しかし、月日は流れて、人々の道徳が次第に堕落し、やがて名利を追求したり、私利私欲のために、殺人、強盗、背信行為、乱倫を犯す人が横行し、村全体の風紀が乱れてしまった。
善良な医師
1960年代、中国の淮北(安徽・江蘇)地区に、医術に優れた高尚な医師・賈氏がいた。彼は患者に因果応報の理を話し、良い人間になるよう説いていた。そのため、彼は「賈善人」と呼ばれるようになった。彼は貧しい患者からは診察料を受け取らず、困っている人にお金を与えた。