中国の服飾文化を開いたのが実は1人の女性であったことを皆さんご存じですか?彼女のおかげで、女性たちは桑の葉を摘み取って蚕(カイコ)を飼育し、その繭から生糸を繰り取ってつむぎ、シルクを織り出して、中国5千年の文化に大きな貢献をしたのです。彼女は黄帝の妻で、嫘祖(レイソ)と呼ばれています。
三皇五帝の時代には、中国は多くの氏族や部族に分かれ、黄帝は有熊氏族出身で、嫘祖は西陵氏族の出身です。嫘祖に関して、様々な書籍が存在していますが、ここでは、明王朝の古典に記載されたものをご紹介したいと思います。
ある日、嫘祖は山の中で果物を摘み取っていました。ふと桑の木の葉っぱの上にうずら卵くらいの大きさの白いものがついているのを見かけたので、まだ誰も知らない果物だと思い、いくつか摘み取って、家に持ち帰りました。間もなくすると、白い繭が破れ、中から蛾が生まれました。
その蛾は多くの卵を産み、中から小さな白い幼虫が孵りました。、嫘祖はその白い虫を「蠶」と名付けました。後世の「蚕」のことです。
しかし、何を食べさせれば良いのでしょうか?嫘祖は桑の葉っぱから繭を摘み取ったことを思い出し、桑の葉っぱを蚕に与えました。すると、蚕たちは細い糸を吐き出し始め、いつの間にか自分を包み込み、「果実」の形になりました。嫘祖はその「果実」を「繭」と名付けました。
なぜ蚕は自分を包み込むのでしょう?不思議に思った嫘祖は繭を偶然に温めのお湯の中に入れました。すると、なんと、繭が柔らかくなり、ひらひらと細い繭糸にほぐれたのです。手に取ってみると、なんと繭糸は切れ目がなく、どんどん伸びていきました。その柔らかくてすべすべした感触を気に入った嫘祖は何本かの繭糸を抱合させつつ繰糸して1本の糸を作り、そこからさらに織り上げ、シルクができたのです。
当時のシルクは基本的に白色しかありませんでした。しかし、白だけではつまらないと、嫘祖は様々な植物の染料を使って絹を染めました。こうして、色とりどりのシルクができました。
当時の人々は基本的に獣の皮や葉っぱなどを身に着けていました。嫘祖が着ている鮮やかで、軽くて、暖かい服を誰も見たことがありません。周りに集まってきた人々に、嫘祖は包み隠さず、蚕の飼育、繭の糸取り、絹の染織などの技術を詳しく説明しました。
このことはまたたく間に全氏族の知るところとなり、他の氏族にまで広がりました。嫘祖のもとには蚕の飼い方やシルクの織り方などの技術を習いに来るものがやってきて、中には嫘祖に縁談を持ちかける人もいました。しかし、嫘祖は誰も気に入らず、すべて断ったのです。
ある日、北の部落の首領ーー黄帝がやってきました。西陵氏族に賢くてきれいな女性がいることが他の氏族に知れ渡っていたので、黄帝は一度その女性に会いたいと思っていたのです。出会った2人はお互いに一目惚れし、すぐに恋に落ち、その後、結婚しました。
後に黄帝は蚩尤を討ち、炎帝を負かし、中原(春秋戦国時代に中国とされる領域)を統一して帝となりました。征戦の毎日が終わり、平和な日々がやってきました。黄帝は男たちを連れて耕作し、嫘祖は女たちに蚕の飼い方やシルクの織り方、染色などを教えます。これが男女の基本的な役割となり、その後の中国の長い歴史の中で受け継がれ、女性は紡織して服を作ることと密接に関係するようになりました。
歴史上、中国は最も早い頃からシルクを使用した国家です。シルクの出現により、中国は「華麗な国」と称されるようになり、龍袍(龍の文様の外衣)や刺繍などは、世界中の人々を驚嘆させています。漢王朝の頃から、鈴の音が響き渡る中で、主要交易品だったシルクを背負ったラクダたちの長い旅が始まりました。
絹織物を主とした中国の服飾文化は遥か西洋まで伝わり、「シルクロード」を通じて、東洋と西洋の文化が出会いました。そのため、嫘祖は後世に中国の服飾文化を創った第一人者と呼ばれ、「先蚕(せんさん)」いわゆる蚕の神として祀られるようになったのです。嫘祖の故郷・西陵(今の四川省綿陽市塩亭県一帯)などの地では、今も「先蚕壇」「先蚕祠」などの古跡が残されており、「嫘祖文化祭」などの行事が行われています。
周王朝の時から清王朝頃まで、歴代の皇后たちは皆、嫘祖を祭ります。『周礼』によると、毎年の春、皇后自ら皇帝の妃や妾、そして、女官たちを率いて盛大に養蚕の古礼を行います。嫘祖を祭るだけでなく、皇后は自ら蚕に桑を与えたりもします。
日本では、4月の終わりか5月初めの頃に「御養蚕始の儀」が執り行われます。この伝統行事は1500年以上継続され、雅子さまはこの儀を美智子さまから受け継がれました。
(翻訳編集:華山律)
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