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服の選び方が語るもの――最低ラインに合わせる時代

少し前のことです。ある夫婦が私の教会の朝の礼拝の時間を尋ね、「次の日曜日に行きますね」と約束しました。実際に彼らは来て礼拝を楽しんでくれましたが、その妻のひと言に私は少し驚かされました。

「みんなきちんとした格好をしているのね」というのが彼女の感想でした。特に、女性たちがズボンではなくスカートやワンピースを着ていることに気づき、それを新鮮に感じたようです。どうやら私は、自分の教会という「泡」の中に長くいすぎて、「特別な場にふさわしい服装をする」という文化が、もはや当たり前ではなくなっていることに気づいていなかったようです。

それは少し残念なことです。なぜなら、私たちの服装は、自分自身や他者をどう見ているかを静かに伝えるメッセージだからです。

イギリスの哲学者ロジャー・スクルートンは、かつて「衣服は慎みを保ち、身体を自然環境から守るために身に着けるものだ」と述べました。しかし、私たちが布をさまざまな形に裁って身につける理由は、それだけではありません。「人は衣服の中で生きており、そのため衣服を単なる服飾(仕立て、スタイル)という狭い意味ではなく、自分の人生における目的や偶然の出来事を映すものとして見ている。衣服は、その人が自分のものとしたい『本質』を象徴するようになるのです」

スクルートンは例として「デニムの服装」を挙げています。多くの人がそれを「機能的だから」と言いますが、スクルートンはこう説明します。「『機能的な(デニムの)服装』が意味を持つのは、その実用性(実際には特に便利でもない)や価格の安さ(実際はそれほど安くもない)によるものではない。それは、ある特定の世界観を表現し、その服を着る人の経験を予期させるからなのです」

私たちの服装は、私たちが自分自身をどう見ているか、そして他人が私たちをどう見ているかに微妙な影響を与えます。(オルガ・パンコバ/ゲッティイメージズ)
私たちのワードローブ(衣服の集まり)は、私たちが自分自身をどう見ているか、そして他人が私たちをどう見るかを静かに形作っています。(Olga Pankova/Getty Images)

 

では、デニムが着る人に与える経験や世界観とはどんなものでしょうか? 平均的なアメリカ人にとって、それは「たくましさ」「地に足のついた独立心」、そして時には「セクシーな印象」かもしれません(少し前に大きな話題を呼んだ、シドニー・スウィーニーのジーンズ広告を思い出してください)。もちろん、それはそれで良いのです——たとえば庭仕事をしている時、牧場で馬に乗っている時、山道をハイキングしている時などなら。

しかし、その同じデニム姿で会社の面接や教会、葬儀、結婚式に行くとしたらどうでしょう?そんな場に、デニムが与える「気軽で素朴な印象」のままで入りたいでしょうか?

おそらく、そうではないはずです……。けれども現代の文化では、私たちはまさにそれを繰り返しているのです。

冒頭の教会の夫婦の話を思い出してください。彼らが驚いたのも無理はありません。今では多くの信者が、まるで前日の庭仕事の服のまま教会に来ているように見えるからです。牧師でさえも、ジーンズにシャツを出したまま、スニーカーで歩き回る光景が一般的になっています。職場でも、ボタンダウンシャツやスラックス、タイトスカートといった服装が、パンデミック中の在宅勤務で慣れ親しんだヨガパンツやスウェットに取って代わられました。パーティーですか? かつては誰もが特別な場に着ていくフォーマルなドレスやスーツを持っていたものですが、今では「清潔でサイズが合っていればOK」というレベルです。

「誰が気にするの?」と思う人もいるでしょう。「私は快適だし、みんなと同じようにしているだけ。それの何が悪いの?」

悪くはありません……「大勢の中の顔のない一人」として生きたいのなら。

残念ながら、今の「民主的」社会では、多くの人がまさにそれを望んでいます。C・S・ルイスは、自身の作品に登場する悪魔のキャラクター「スクルーテープ(The Screwtape Letters)」を通してこの現象を指摘しました。

「最近の若者たちは、『みんなと同じでいたい』という理由で、クラシック音楽や良書に対する芽生えた興味を抑え込むことがある」とスクルーテープは言います。

さらにこう続けます。「正直で、貞潔で、節度ある人間になりたいと本気で望み、それを可能にする恩寵を与えられても、それを拒むのです……。そんなことをすれば(なんと恐ろしい!)『個性ある人間』になってしまうからです」

スクルーテープは音楽や文学を例に挙げていますが、服装にも同じことが言えるでしょう。私たちは皆、「目立ちたくない」という理由で、服装のレベルを下げ続けてはいないでしょうか? しかし、それこそが悪の力が望むことなのです。——私たちを「平等」にし、善きことや成功への志を引き下げ、「最低ライン」にそろえようとするのです。

スクルーテープはこうも述べています。「私が注目させたいのは、人間のあらゆる優秀さ――道徳的、文化的、社会的、知的な優秀さ――を貶め、ついには消し去ろうとする大きな流れです。そして今や、『呪文のように唱えられる民主主義』が、かつて古代の独裁者たちが使っていたのと同じ方法で、私たちのためにその仕事をしているのです。……誰も群衆より賢く、善良で、有名で、あるいは見栄えが良くあってはならない。すべてを同じレベルに削り取れ——全員が奴隷であり、数字であり、無名の存在だ。全員平等だ」

つまり、もし「名もなき存在」として人生をただ漂いたいのなら、ジーンズやスウェット、スニーカーをどんな場でも着続ければいいのです——教会でも、職場でも、特別なイベントでも。

きちんとした服装は、どんな場面でも思いやりと自尊心を伝えます。(g-stockstudio/Getty Images)
きちんとした服装は、どんな場面でも思いやりと自尊心を伝えます。(g-stockstudio/Getty Images)

しかし、誰もそんな「名無し」のレッテルを背中に貼られたいとは思わないはずです。

そうでないのなら、挑戦してみましょう。教会へ行くなら、ドレスやスーツを着て行ってみてください。出勤するなら、襟付きのシャツとスラックスに着替えてから車に乗り込みましょう。特別なイベントに出席するなら、思いきりおしゃれをして出かけましょう。

それは決して「気取るため」ではありません。むしろ、自分の姿勢を高め、自分自身と他人、そしてこの世の「真・善・美」への敬意を表すためなのです。

(翻訳編集 井田千景)