若狭街道で平八茶屋が街道茶屋として始まったのは、安土桃山時代、天正年間の1576年のことだった。その後、平八茶屋は江戸時代から令和へと時代を越えて続いてきた。この440年もの歴史の移り変わりを平八茶屋はどのように越えてきたのだろうか。
若狭街道の街道茶屋として始まった平八茶屋は、街道茶屋から旅籠へと、その姿を変えてきたが、明治の中期、鉄道が敷かれるようになると若狭街道の往来は少なくなり、どんどん寂れていった。
当時、旅籠を家業としていた平八茶屋にとっては存亡の危機であったであろう。
そこで当時の15代目の当主は、川魚料理を始め、その後、料理は店の看板料理になった。その時、街道の旅籠だった平八茶屋は料亭に変貌を遂げ、一つの大きな峠を越えた。
それから、16代目、17代目と明治、大正時代を越え、100年経った昭和55年頃、20代目の当主、園部平八氏は、100年間続いてはいるものの川魚料理だけでは店は衰退していくという焦りを感じていたという。
そこで園部氏は川魚料理を若狭の海のぐじ(甘鯛)を使った料理に変えた。この新料理は軌道に乗り、今では、その若狭のぐじを使った若狭懐石は店の料理の95%以上になった。
平八茶屋が歩んできた440年の歴史は平坦なものではなかった。この長い間、何千何万もの店が潰れてきただろう。平八茶屋が時代の節目をくぐり抜け、現在まで残ってきた秘密は何なのだろうか。
受け継がれてきた教え
京都100年企業研究会のウェブサイトに掲載された取材動画の中で園部氏は平八茶屋には先代から受け継がれた「教え」が3つあると述べている。
当主が料理人である事
まずは「当主が料理人である」という事だ。店によっては主人が包丁を握らなくても、職人を雇って調理させれば、主人はマネジメントに専念できる。実際、そのような料理旅館も少なくないだろう。
しかし園部氏は「職人に調理させると、職人が変われば味が変わってしまう」と語る。平八茶屋は一子相伝で当主を継承している。それも候補者が2名いれば、非継承者には他の職につかせるという徹底したものだ。平八茶屋は440年間21代にわたって、当主が料理人であることを継承してきたのである。
店を家業として継承する事
園部氏は自身を非常に長いリレーの20人目のランナーだと例えながら、「先輩たちの血と汗、涙を全部担いでいるという思いを心の底に抱いて走っている」と話す。
店の味と料亭を守り次世代につなげ、店を家業として継承していく事も平八茶屋の教えとして伝えられている。園部氏は「料理屋と出来物は大きくなったら潰れる」と述べている。
残すものと変えるものをしっかりと区分する事
老舗であれば、いわゆる名物と言われるような献立やサービスがあるものだが、長い月日が経つと、中には時代の好みとはそぐわなくなるものも出てくるだろう。どれを残すかどれを変えるかは、店の行く末に大きな影響を与える。
園部氏は平八茶屋の創業以来、今も多くの客に親しまれている「麦飯とろろ」について、一度だすのをやめようかと思ったことがあるという。
京都の老舗料理屋が集まり、当店独自の季節の料理を出していく百貨店の催し物があり、客の目が色とりどりの華やかな料理の方へ向かい、「麦飯とろろ」の売上が上がらなかった時のことだ。
しかし「麦飯とろろ」は平八茶屋の創業以来の店の名物で、品書きから消すということに割り切れなさを感じ、考え直した。そこでとろろにはジアスターゼという消化酵素が多く含まれており、体、特に胃腸にとっても良いということを売りとして出してみると、このことが客に受け入れられた。結果的には他店との差別化となり、かえって強みとなっていったという。
「麦飯とろろ」は今も平八茶屋の創業以来の名物として残っている。
その一方で100年間続いた川魚料理を若狭懐石に変えたように変えるべきものは変えていく。
「時代に迎合せず、時代に必要とされる料理と料亭を追求すること」
園田氏はこの一見相反することを続けていくことをモットーとしているという。
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