行くことはできなくても、もっとその気持ちを受け止められたのではないか。感謝の気持ちを伝えられたのではないかと思いがだんだん強くなる(Fast&Slow / PIXTA)

ドイツの義兄【私の思い出日記】

3年前の3月、ドイツの義兄(次姉の夫)から電話がかかってきた。そんなことは初めてだったので驚いたが、自分の80歳のお誕生日のお祝いをするので、家族みんなで来てほしい。航空券を送るから、ぜひとのことだった。突然だったのと、コロナのこともあり、当然ながらその招待を受けることはできなかった。そして、彼(ライナー)はその年の10月に亡くなった。

今年になって、姉の80歳の誕生会を行うとの知らせに、その電話のことを思い出し、彼や彼の家族との色々な光景が蘇ってきた。

50年以上前、私が初めてドイツを訪れた時、姉は彼と婚約中だった。姉が平日は働いていたため、日中は姉のアパートに一人でいると、昼に玄関のベルがなり、そこにライナーの父親が立っていた。一人の私を昼食のために町のレストランに連れていってくれた。どんな会話をしたのか忘れてしまったが、玄関で彼が「どうぞ」といつも手を差し伸べてくれた姿、その優しい笑顔が鮮明に残っている。

クリスマスにライナー家でホームパーティをしていると、その父の姿が見えない。外出した感じもないし、皆も気にしていない。でもどうしたのとライナーに尋ねると、「父はみんなで幸せな時間を過ごしていると、ふと戦時中の苦しかったことを思い出し、せつなくなって、ベランダに出て思いにふける。いつものことだから気にしないで」と言った。どちらがいい悪いではなく、どんなに戦争は悲惨だったのだろう。穏やかなこの人の裏にどんな悲しみや苦しみがあったのだろう。戦争の歴史やニュースを知る度に、このことがいつも思い出される。

またライナーは私を本当の妹のように大事にしてくれて、ドイツへも度々招待してくれた。彼も来日したが、その時は、長姉夫婦の住む実家に滞在し、長姉の夫と義理の兄弟として二人は仲良しになった。英語が苦手な長兄だったが、楽しそうに二人で町に出かけていく。話は続くのだろうか、コミュニケーションは大丈夫なのだろうかとの心配をよそに、二人でケラケラ笑いながら帰宅してくる。

どのように会話しているのと聞くと、長兄はニコニコしながら

「今日は寿司を食べてきた。昨日は町の少しいい寿司屋で、そして今日は回転寿司を食べてきた。昨日は、ベンツ寿司。今日はワーゲン寿司と言ったら、分かっていた」

という。特に一人っ子のライナーは、義理とはいえ、兄ができたようで本当にうれしそうであった。その長兄も今は亡き人である。

先日、あの突然の電話のことを姉に聞いてみた。「突然電話をかけていたのでびっくりしたけど、本当に来てほしいと強く思っていたようだった」と。行くことはできなくても、もっとその気持ちを受け止められたのではないか。感謝の気持ちをもっと伝えられたのでは、との思いがだんだん強くなっているような気がする。

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