【北京コレクション】(4)明清時代の胡同と四合院=北京郊外①

【大紀元日本6月8日】北京の街から西へ90キロいったところに、“爨底下”(cuàn dǐxià)と呼ばれる村があります。明の永楽年間(1403~1424年)に山西から移住してきた人たちによって造られたと言われ、すでに500年以上の歴史を持ちます。

“爨”とは「かまど」のことですので、“爨底下”とは「かまどの下」ということになりそうですが、山西から人々が移住してきたとき、山の上に“爨里安口”と呼ばれる軍事拠点があり、その下にできた村なので、“爨底下”と呼ばれるようになったとも言われています。

ただ、“爨”の字は“興林大火”を縦に並べた形をしており、あまりにも画数が多いので、1958年に発音の似た“川chuān”の字に改めさせられ、今は一般に“川底下村”と呼ばれているそうです。

この村には、明清時代の胡同四合院がほぼ完全な形で数多く残されており、人気の観光スポットとなっています。今回から数回に分けて、村の様子を記録した写真をご紹介します。

“爨底下村”は、山を背に扇状に広がっている。村には、四合院や四合院風の塀で囲まれた住宅が76個残っており、現存する部屋数は656間だそうだ。(撮影=LG、2008.02)

中庭を4つの棟で取り囲むような造りになっている四合院が点在しているのがよくわかる。(撮影=LG、2008.02)

この写真のお宅は、典型的な四合院の造りに近い。道に面した門から中に入ると、左手に小さな棟に挟まれた庭がある。この棟には普通使用人が住む。さらに奥の門を入ると、中庭を取り囲むようにして四方に棟が建っている。一般的には、正面の棟が居間兼応接間となる“正房”で、その左右に家長の寝室となる“耳房”がある。“正房”の手前の中庭を挟んで向かい合った棟は、家長以外の家族の寝室、書斎、食堂となる“廂房”である。“正房”の向かいにある、奥の門の空けられた棟は、外から見えないようにするための目隠しの壁(影壁)だと思われる。(撮影=LG、2008.02)

石畳の胡同。朽ちた塀が歴史を感じさせる。(撮影=LG、2008.02)

(DZ)