趙紫陽元秘書鮑彤氏、神韻芸術の感化力と生命力を語る

【大紀元日本1月31日】旧正月を迎えた1月下旬、世界中で高い評価を受けている神韻芸術団はニューヨークの四つの劇場で12公演を続けて行い、各業界の著名人や華人同胞から絶賛された。

中国の元指導者・趙紫陽の秘書を務めた鮑彤氏はこのほど、大紀元のインタビューを受け、神韻の公演は中国の伝統文化を発揚し、これは非常に素晴らしいことであり、偉大な壮挙であると高く評価し、それと共に神韻公演の成功に祝意を表した。

神韻公演などについて、鮑彤氏は次のように語った。

趙紫陽の政治秘書を務めた鮑彤氏(大紀元)

感化力生命力に富む神韻

演出することにより、優れた芸術およびその真髄を観客に伝えながら、共感を引き起こすことができるか否かは、演じる者の芸術とその精神的なレベルを測る基準となる。神韻の公演は観客の心の深いところを動かすことができ、よって感動した観客が涙を流す。そして、神韻は観客たちに一種の心地よさだけでなく、精神的啓発を与え、積極的なメッセージを伝えたことから、神韻芸術団は非常に感化力と生命力に富んでいることが証明されたと言える。こうような超絶的で高尚なる偉大な芸術は永続するに違いない。

芸術が観客に与える感情は、共感、反感、無感動のほぼ三つに集約できる。毛沢東はかつて「党八股」(注)には吸引力なしと自ら認めた。

神韻は人々の善心を啓発し道徳を再構築する

神韻は人々に共感を引き起こし、観客の奥深いところにある善心を啓発し、人間としてあるべき基本の道徳をあらためて発掘し、それらを再構築しているのである。人間たるものは、第一の特徴として惻隠の情があること。すなわち、同情心や憐憫の情であり、決して恨みや争いそのものではない。人間として他者を愛し、この世界に関心を寄せ、人道主義やヒューマニズムを持つべきであろう。古人いわく、惻隠の情無くして人間に非ず。毛沢東はかつて中国共産党の哲学は闘争の哲学だと言ったが、これはきわめて悪質のものだ。人間が互いに争いあった結果、文化大革命に至ったわけだ。それは何の益があるのであろうか。

一方、伝統文化は道徳や仁義や忠孝や人道などを崇め尊ぶ。もし、愛し合うべき人間同士が抑圧や闘争の関係にあるならば、この社会は魅力を失い野獣の社会と同様だ。人間として人道や人性があるべきであり、これらはとても重要である。家庭においても、父母、兄弟、親子などの関係でも人間の倫理道徳を守り、みな人道主義とヒューマニズムを貫くべきだと思う。社会は大きな家庭のようなもので、お互いに兄弟姉妹のような関係であるべきであって、決して闘争の哲学や敵・味方という関係であってはいけない。

人間として是非の情、醜悪の情、礼譲の情を持つべきである。人間として、黒を白と、白を黒と言いくるめてはいけない。事に触れて愚かにならないように、是非、真偽、善悪を判断する能力を持つべきであろう。むろん、中国文化の中にも精華もあるし糟粕(そうはく)もあるが、われわれはその精華を発揚しその糟粕を淘汰すべきだ。しかし、今のところ、一部の人はその糟粕を宝物とし精華をゴミとして捨て去ったのだ。それから、羞恥心も重要で、恥をかくようなことをやってはいけない。今の中国の腐敗官僚らは表向きでは堂々として体裁がよく、毎日腐敗に反対し廉潔の政治を提唱する文章を発表しているが、しかし結局、妾や愛人が何人もいると摘発されてしまったものだ。これらの者は毎日不正行為を働くが、堂々として他人を訓示したり、指導したりし、羞恥心などはいささかもないわけだ。

古人いわく、民を貴しと為し、社稷(しゃはく=国家)これに次ぎ、君を軽しと為す。これはなかなか素晴らしい思想である。指導者としては国民の利益を第一に考え、国民の福利を図るべきではないか。「人を本と為す」云々もおそらく、こういった意味であろう。しかし、こういったものは実行しなければならず、ただスローガンに留まるのみでは、失望するばかりである。

天人合一思想は中国人の心に根を下ろしている

中国伝統文化の中で、より重要なのは「天人合一」という思想である。この思想は古代から中国人の心に根を深く下ろしている。

中国人は天人合一を重んじるが、実際も人倫は天理から切っても切れない関係にある。天人合一の精神は、社会秩序の維持や社会の調和と安定にきわめてプラスの役割を果たすのである。もし、国の指導者がこの天人合一の理念を持ちさえすれば、国家は安定し国民は幸福になるはずである。もし、国民がこの思想を持っているならば、きっと幸福で長寿になるのであろう。

天人合一は迷信だと思う人がいるかもしれないが、実はそうではない。人間自身は天地の産物であるだけに、自然を離れては生きていられないのではないか。従って、天人合一は、迷信ではなくきわめて科学的な思想だ。人間は客観的に自然を観察・認識し、自然を守りつつ自然に適応し、天地自然と協調的に付き合うべきであって、中共の言う「天地を改造する」べきではない。すなわち、自然の規律を背たり自然環境を破壊したり自然を悪化させたりしてはならないわけである。

十何年来、中国の自然環境ははなはだ破壊されてきた。大気汚染、水汚染、鉱物や資源の浪費、土地の悪化・砂漠化などなど。これらはますます深刻になっており、きわめて重視に値すべきである。もしわれわれの世代で怠っていれば、子孫たちに残したのははたしていかなる環境であろう。地球への破壊は自分自身を破壊することだ。

歴史上では信仰への迫害はいずれも失敗で終わる

神韻公演の演目の中で、法輪功学習者が中共の迫害を受けつつも信仰を守り、真相を伝え、善と忍をもって人々を喚起・感化するものがあるが、それを見ていると涙が流れるものだ。

これらの問題は、実は政治の問題ではなく、思想や精神領域の問題であり、人性や人心の問題なのである。そして、是非、善悪、真偽、好悪を弁明する問題でもある。

法輪功に対する迫害は悲劇であり、人類社会においてこの種の迫害が起こるべきではない。人間は信仰を持つべきである。歴史上において、信仰に対する迫害は最終的にいずれも失敗に終わった。したがって、今日は歴史の覆轍をふたたび踏んではいけない。迫害をもって信仰への放棄を謀るなどは、永遠に実現できないものである。ある人はかつてこう言った。「もし、有神論が非法だと公表すれば、それ自身は有神論のために宣伝することになる」。この言い方はきわめて賢く意味深い。有神論や無神論などは、法律をもっても解決できないものなのに、暴力をもって解決しようとするのはより愚かであり、結局、社会からの反感・反発を招くしかならない。

法輪功学習者が信仰を固く堅持していることを支持する。迫害を受けている信仰者として、自身の信仰を固く堅持すると共に、他人にも信仰するよう勧めてもよい。もし、あなたはこれが真理だと思っているならば、それを堅持しそして他人にもその真理を教え、なおかつその真理のために戦うべきだと考えている。

中国の社会には公民の権力が必要だ、これはわれわれの急務である。今の中国では往々にして黒白顛倒となり、社会に責任感をもつ者はつねに打撃される。したがって、こういった社会において、人々は、私事ではないなら関わらず、原則を変えても身の安全を守ろうとするという人生哲学を培ってきたわけである。これはきわめて厳重な問題である。人間にはそれぞれの人生態度をもってもよいが、しかし、正常で正当で積極的で向上心を持つ人々を敵として打撃し、批判してはならないのではないか。これは、きわめて危険なことであり、きわめて恐ろしいことであり、そして社会の自殺に等しいものなのである。

注:明・清代、科挙(官吏登用試験)に応ずるものに課した文体。一文を「破題」「承題」「起講」「入手」「起股」「中股」「後股」「束股」の八部分をもって構成する。後四部分の中に各両股の対句を用い、すなわち「八股」とするのでこの名がある。転じて形式的で内容が空虚な文章や芸術や態度のことを譬えて言うものである。(注=編集者)

(記者・辛菲/翻訳編集・小林)