中国崑崙山の仙人(10) 豢龍人

【大紀元日本1月16日】

前書


本文は、私が知り合った先天道を修めた平先生(500歳)の経歴を記録したもので、文章はすべて記憶によるものである。何人かの人の記憶を統合したもの、または私と平先生の間であった途切れ途切れのいくつかの対話を元に書いたものであるため、文の繋がりがよくないと感じるところもあると思われる。私はそれらを一つに統合し、論理的な文脈を整えるため、想像を使った文字を加える場合があったが、事実を離れた記述はない。平先生との経験から、私は世の中の多くの出来事は人が思っているものとはまったく違うということが分かった。本文を読んだ後、多くの人は考え方が変わると思う。

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六、豢龍人

平先生の本当の素性は、ずっと謎だった。私と父が再三聞いてから、彼はようやく教えてくれた。人の世で、彼は「豢龍人」という特殊な身分を持っており、そのため、彼の体は人の世を自由に出入りすることができるという。

かつて読んだことのある歴史の本によると、舜の時代、豢龍氏(龍を飼い慣らすことができる一族)の董父がいて、(※1)劉累(りゅうるい)と呼ばれる御竜氏もいた。彼も歴史の中に出てくる、いわゆる豢龍氏であるかと聞くと、平先生は、歴史の本にどう書かれているかは知らないが、自分は確かに董父の後代であると言った。「豢龍術」はずっと世の中に伝承され、(※2)奇門遁甲(きもんとんこう)など不思議で奇妙なものも、実は伝承が絶えておらず、ずっと民間に伝わってきたという。ただ、これらのものは一般の人には知られていない。それを伝承するには、数百から数千年に一人の後継者を選び、彼を世間の外に連れて行き、そこで静修するため、世の人には知られないという。

また、大門派では門派ごとに特定の修行場所があり、外来の門派はそこに入ることはできない。平先生が修行している先天道の場合は、昆侖山に修行場所がある。彼らは皆、自分だけの洞穴を持っており、大山の真ん中や、山の下などにもある。しかし、彼らは功能で洞穴の入口を閉じているため、誰も入れないようになっている。彼らが洞穴の中で修行する時は、飲むことも食べることもなく、一心に修行し、修行が成功しなければ、洞穴の中で死ぬしかない。一般的には数百年、または数千年修行し、修行に成功するまで洞穴を出ない。しかし、門派によって要求も異なり、修行の途中に、洞穴を出て行脚に行くものもあれば、洞穴を修行場所としない門派もある。

このような世の外で修行する人は至る所におり、数は少なくない。平先生は中国全土を踏破したが、行き着いた多くの大山には、このような修行者たちがいた。彼らの門派が修行する範囲内に他の門派の者が入って修行することは許されていないが、通行者であれば問題にならないという。彼らは山の中に身を隠して修行しているが、お互いのことは知っている。平先生の話によれば、彼らの修行する範囲を通行する場合は、一般的に彼らと簡単に挨拶を交わし、道を借りる程度のことをするだけで、深い交流は行わないという。なぜなら、異なる門派の修練に関わるため、真体が乱されるのを恐れているからである。

平先生の話を聞いて、私は密かに驚き、これらの修行する人たちに感心した。彼らは数百年、数千年も一人で、暗黒の氷のような冷たい洞穴の中にいるのだ。それはどれほどの苦しみであるだろうか。そのようにすれば、修行できるのだろうか。平先生は笑いながら、こう話した。「あなたは、これらの氷のように冷たい、石の洞穴を見下してはならない。実は、これらの洞穴は素晴らしくて、比類がないのだ」。修練してある一定の境界まで達すると、これらの洞穴は神奇な世界に変わるという。中はこの上なく広大で、高山流水や鳥類、獣類など何でもそろっていて、言葉で言い表せないほど見事であるという。その光景は、人には想像することができないものだ。

彼の話に、私は再び驚き、突然、「懸壺濟世」ということわざの故事を思い出した。町で人の病気を治している、ある一人の道士がいた。彼は、いつも一つの酒を入れた壺を身に付けており、夜になると、その小さい壺の中に跳びこみ、次の日になるとそこから出てくるという。ある日、一人の若者がその道士の弟子になろうとした。道士は、自分に従って壺の中へ跳びこんでみなさい、と言った。若者は歯を食いしばり、壺へ跳びこんだ。すると、小さい壺の中には鳥類や珍獣、高山流水など何でもそろっていて、実は一つの広大で不思議な世界があったのだ。

私は、それは本当ですかと平先生に聞くと、彼は首を縦に振って頷きながら、こう話した。修練してある一定の境界へ達すると、修行している洞穴が高次元の空間と繋がる。その時になると、洞穴は「洞天」と呼ばれるようになり、仙人の府となる。凡人は、修行者は苦しい生き方をしていると見ているが、修行者から見ると、凡人こそ本当に苦しく生きていると思っている。両方とも、それぞれ自分なりの生き方の楽しさがあるのだ。例えば、ブタの世界から人間を見ると、人間が苦しく生きているように見えるかもしれない。人間は一日中働いて苦労しながら、ブタのように泥の中で転げ回ることもできず、ブタよりも楽しみを享受していない、などのように。しかし、人間の世界からブタを見ると、やつらこそ苦しく生きており、汚いと思っている。つまり、それぞれ、自分の楽しみがあるのだ。私は首を縦に振りながら、彼の話に、何かしら少し悟ったように感じた。

※1劉累(りゅうるい)-豢龍氏という龍を飼い慣らすことができる一族から龍の飼い方を学び、夏朝の第14代帝の孔甲の命により、龍を養おうとしたが失敗し、逃亡した。また、劉累が、死んだ龍の肉を献上したところ、孔甲が美味であると喜び、さらに龍の肉を求めたがそれを献上することができず、逃亡したという説もある。孔甲から御龍氏という姓を賜っている。

※2奇門遁甲(きもんとんこう)-中国の兵法で用いられる占術。奇門遁甲の創始伝説によると、黄帝が蚩尤と戦っていた時に天帝から授けられたとされる。周の呂尚が改編し、前漢の張良が完成させ、三国時代の蜀の諸葛亮なども用いたとされるが、詳細は不明で呪術と絡めて語られることもある。

(翻訳編集・柳小明)