【大紀元日本5月14日】
本文は、私が知り合った先天道を修めた平先生(500歳)の経歴を記録したもので、文章はすべて記憶によるものである。何人かの人の記憶を統合したもの、または私と平先生の間であった途切れ途切れのいくつかの対話を元に書いたものであるため、文の繋がりがよくないと感じるところもあると思われる。私はそれらを一つに統合し、論理的な文脈を整えるため、想像を使った文字を加える場合があったが、事実を離れた記述はない。平先生との経験から、私は世の中の多くの出来事は人が思っているものとはまったく違うということが分かった。本文を読んだ後、多くの人は考え方が変わると思う。
十八、医の道
平先生の話は、今まで聞いたことのない不思議なことだった。神医も聞いて夢中になり、見聞が広がったと言うばかりだった。
夜が明けて使命も終わった。学校も始まるので、そろそろ家に帰らないといけない。平先生が私を家まで送ってくれると言った。神医も私たちと同行すると言い、道すがら私を送ってくれると言った。
実際のところ、私はずっと漢方医を奥深いと思い、それにあこがれていた。そして、いつか漢方医になって、各地に足を運びながら、世の中の人々を救い助けてあげようと思っていた。神医を前にそんな考えは出せなかったが、彼と本当に別れるようになると、ついに勇気を出して、医術を伝授してくれるよう頼んだ。私の願いに神医は一瞬驚き、平先生を見て頭を振るばかりだった。私は失望した。
神医はそんな私に、肩を叩きながらこう言った。彼が教えてくれないのは、ほかでもなく、私に教えることを恐れているからだと。平先生でさえ教えることができないのに、彼は更に勇気がないのだと言った。上等の絹織物を、机を拭く雑巾のように使うのと同じく、もし私が「上等の絹織物」であるなら、私を害するだけでなく、何も得ることができなくなるので、彼は大きな罪を負うことになるのだと言った。私は申し訳なく思い、頭を下げた。
神医は私を喜ばせるため、治病の時の珍しい出来事をしゃべりはじめた。またそのようなことを聞けることに、私は興奮して耳を傾けた。
神医によると、治病というのはあくまでも気の通じを良くし、脈を通させることに過ぎないのだという。使われる手法も薬草を使ったり、針灸、マッサージなどに限られている。また、いかなる病にも病の気が存在し、人体にも気が存在するという。人体の気にはいろんな種類がある。「先天の気」は、腎臓に集まっている先天的な精気を指しており、人体にとって最も重要な役割を果たしている。そして「後天の気」というのは、人が食べる五穀雑穀などの気や、呼吸の際の呼気や、吸気を指している。五臓六腑は、気の生成、集まる場所であり、経絡は気を運送する作用を果たしている。機械がオイルによって駆動されるように、人体は気によって維持されているので、気が尽きると、人は死んでしまう。人には「奇経八脈」、「十二正経」などがあるが、それらはいずれも気の通路であり、気の流動を導いている。それらの通路は五臓六腑とともに一つの精密な設備を形成しているが、いかなる人類の精密機械よりも完璧で、精密である。それらの設備は気を生成し、気を集め、気を流動させ、気を調和しながら、人体の循環を駆動している。気が順調で、清らかで、充足していると、人は元気になり、疾病にかかりにくくなる。一方、気が不順で、脈が通じないと、人は病になり、引いては危険にさらされて、命を失う恐れもあるというのだ。
神医は、この時には薬草や針灸などを使って治病することが考えられると言った。彼によると、世間万物にはみな気があり、薬草を始めすべての植物には気があるが、異なる植物には異なる機制があるため、それらの気の色や性質なども異なるという。そのため、古人は「万物にはみな霊がある」と言ったのかもしれない。異なる植物の異なる性質を元に、異なる量で組み合わせると、それが漢方薬となる。実は、この漢方薬は、植物の異なる気を組み合わせて、それを人に飲ませ、体内で運行することで、異なる病気に応じて治療する効果に達するという。また、漢方薬の調剤方法と治療効果は、それを調和する人各自の境界と悟性を元に、自分で把握し、組み合わせ方も自由で、決まったルールはない。しかし、今の医者は、異なる病に異なる薬草の調剤方法を行うのではなく、調剤方法を固定してしまったので、調剤した漢方薬は、時には量が多くなったり、少なかったり、不当に調剤されたりして、人にダメージを与えてしまい、治病の効果にも達することができないのだという。そのため、人々は漢方医をますます信じなくなったというのだ。
神医によると、ある特殊な植物は特殊な機制を持っているため、ある特殊な気を生み出し、転化することができるという。例えば、薬用の人参や、霊芝などがそれに該当する。それらはある特殊な地理環境の中で、長い日々を経て、天地の霊気を集め、「霊」となる。それらを食べると、死者をも蘇らせ、若返ることができると言われるが、今はそれと逢った人はいないため、誰も信じなくなったというのだ。また、神医は、これらの神奇な植物は実はたくさんあり、彼は全国各地に足を運んで、いくつか収集したこともあったと言った。彼によると、「還魂草」という地の霊気を集めた植物があるが、いかなる病気も治すことができるという。それは地の気を得て、雨露に会うと生き返るものである。たとえそれを乾かして、軟らかく煮て、数百数千年を過ぎても、再び土に挿し込み、少量の水だけを与えると、数日も経たないうちに生き返ることができ、更に緑の葉もできるという。これらの不思議な植物はほかにもたくさんあるという。神医によると、上古の時はこのような植物は山ほどあったが、現代になって人類はますます自然と離れ、自然を破壊してきたので、自然の気も破壊され、汚染されてしまったので、これらの仙草はだんだん生きる環境を失ってしまい、ますます少なくなり、引いては跡を絶ったものもあるという。
私は、人類が無知の中で本当に多くの悪事を働いてしまい、人を害し、自分も害したと思い、心が痛んできた。神医は虫を駆除し、邪を追い払うことについて話し始めた。虫を治療するというのは、「蜮」などを治療することなのかと尋ねると、彼はうなずいて、虫にもたくさんの種類があり、異なる虫は能力や次元も異なると言った。一番次元の低い虫は、回虫など人体の寄生虫があげられるが、それらを取り出すのはとても容易であると言った。それより次元がすこし高いのは、毒ムカデのような「蠱」であり、それより更に高いのは「蜮」などがあるという。これらはみな寄生するものであり、人体で形を現すものもあれば、現さないものもある。形を現さないものは、薬を使ってそれらの原形を打ち出さないといけないというのだ。
続いて、神医は邪を追い払うことについて話した。ここでいう「邪」は、妖狐など人体に憑いている邪霊を指しているのではない。それらは彼の治療対象範囲に属していない。彼が言う「邪」は、一種の病気の「邪」であり、それらは人体に寄生するのではなく、人体の範囲に入ってきて、そこから離れようとしないという。この「病邪」も形を現さず、一団の不純な気だけが見えるという。修行の境界が高くなるにつれ、その気からそれの外形が見えるようになる。例えば、「天蝠蛾」、「雙鉤蠍」、「雞冠鼠」など。この時は針灸で治病することができるという。神医はこれらのものを治療するのは、とても危険で、針灸する時は、それの目に向けて挿しこみ、一回で成功させなければいけないと言った。間違った場所を挿したり、一回で成功できなかったりすると、治療することはもう2度とできなくなるのだという。正しい場所に的中し、一回で成功すると、その病気の「邪気」は原形を現し、打ち落とされて、散らばってしまって、即病気が治るのだという。神医によると、この種の病気は一番治療が難しく、彼も全ての病気が治せるわけではなく、「天蝠蛾」、「雙鉤蠍」など、昆虫類の邪霊の治療はできるが、「雞冠鼠」などの獣類の治療はできないという。これらのものはとても凶悪で、それを治そうとすると、それは人の「真体」を傷つけ、もう再び治療することはできなくなり、「真体」が損なわれたため、生まれ変わっても、永遠に障害をもつようになるというのだ。
彼の話に私は驚き、漢方医が病気を治すことについて良くわかるようになった。
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