【大紀元日本5月21日】
本文は、私が知り合った先天道を修めた平先生(500歳)の経歴を記録したもので、文章はすべて記憶によるものである。何人かの人の記憶を統合したもの、または私と平先生の間であった途切れ途切れのいくつかの対話を元に書いたものであるため、文の繋がりがよくないと感じるところもあると思われる。私はそれらを一つに統合し、論理的な文脈を整えるため、想像を使った文字を加える場合があったが、事実を離れた記述はない。平先生との経験から、私は世の中の多くの出来事は人が思っているものとはまったく違うということが分かった。本文を読んだ後、多くの人は考え方が変わると思う。
十九、気
私は気のことについて、もっと話してほしいと神医にしつこくねだった。私は気功を習ったことがあり、父も気功の愛好者だった。私は、気功というのは本当に不思議なものだと思っており、ずっとその謎を解きたかったのだ。
だが、神医は自分が知っているのもこれらのことに限られているので、もっと詳しく聞きたいならば、平先生に教示をお願いするしかないと答えた。彼の話に、私は平先生の顔を見た。私の求知心に対して平先生は断ることなく、今回も教えてくれた。
彼は、「気」というのはとても大雑把で、「生気」、「霊気」、「清気」、「精気」など、様々な物質を含んでいると言った。少しでも流動のあるものを発するのであれば、みな「気」と呼ばれるという。「気」は大きく、「先天の気」と「後天の気」の二つの種類に分けられる。「先天の気」は、生命の母であって、万物を生み育てる。「後天の気」は、生命が生まれた後に生じた気で、生命の霊とも言え、万物の生命を支えてくれる。気が尽きると、生命はなくなるのだ。
平先生は、人体だけでなく、自然万物にもみな気があり、石や物質などにも気があると言った。このことから万物にはみな霊があると言えるが、人はそれを見ることができないし、信じようとしない。平先生によると、いくらかの物質をどこかに置いた場合、時間が長く経つと、それらは移動することができるという。しかし、これらの動きは人にとってあまりにも緩慢であるため、人の目には見えないし、測ることもできない。また、石にも呼吸や代謝などがあるが、人はそれを見ることも、感じることもできない。実はそれら全てが生命であって、もし人類が自然万物に対して道をもって接し、愛護すると、それらは霊性を現し、人に恩返しする。しかし、今の人々はそれらをただの奴隷のように足元に踏んで酷使し、それと交流したり、愛護したりせずに、これらのことを信じない。そのため、人にはそれらの霊性の一面が永遠に見えないし、永遠に信じないため、ますますこの世の中で迷ってしまうのである。
また、平先生は、生命は循環することにあり、循環が止まると、生命は終わるのだと言った。同一境界の全ての生命個体はお互いに通じ合って、更に大きい一つの大循環を形成するが、これは自然循環と呼ばれる。一方、異なる境界の自然もお互いに通じ合って、更に大きい循環を形成するが、これは宇宙循環と呼ばれる。いわば、全てが循環に含まれており、循環から除かれるものは一つもないのだ。
彼は、「気」は宇宙循環の一つの重要な要素であって、低境界で発した精気は、また高境界に吸収され、高境界の気に転化された後は、高境界を維持するためのエネルギーになるのだと言った。同境界の中の気は流動したり、交換したりすることができ、自然万物を繋ぎとめている。これは気の循環である。いわば、至るところに気があり、人体に気があるほか、万物にも気があり、大自然にも気がある。天陽の気があれば、地陰の気もあり、宇宙の気があれば、各種の異なる星の気があり、太陽の気、太陰の気などもあるという。
私は、気功でいう「気」とは何かと尋ねた。平先生は、「気功」は一つのとても大雑把な概念であるが、実はそれにはたくさんの法門が含まれていると言った。それには仏家や、道家、奇門、魔道、邪門などもあるが、それらを「気功」と総称するのだという。実は「気」を練るのは、次元が極めて低く、まるで這って歩み始める子供のようで、修行者にとっては、修行の初級段階であり、本当の修行とは言えない。周天(しゅうてん)※が通じた後になると、気を練ることはなくなり、本当の修行の段階に入るというのだ。
彼は、修行してある一定の境界に達すると、自然万物はみな霊気を発散し、色も、透明度も異なるのが見えると言った。気は流動、交換、昇降することができるが、もし一定の方向に向けて流動し続けると、時間が経つにつれて、だんだん気機を形成するようになるという。気機が強まると、だんだん脈を形成し、脈により循環が開かれると、エネルギーは非常に強くなり、だんだん周天を形成するのだという。
また、平先生は人体の五臓六腑は、気が生じ、集まる場所であり、経脈は気を運送する役割を果たすのだと言った。これは人体の気であるが、一方、大自然も一つの巨大な生命で、神霊であって、人体と同じく、五臓六腑と経脈を有しているのだと言った。地上にはまた様々な地勢や地貌、山川河流などがあるが、多くの有名な山や川などには、霊気が集まっており、これらのところは、自然の臓腑、または重要な穴(つぼ)に該当するものであるという。また自然の中には、水脈、地脈などを含んだ多くの脈があるが、いずれも気とエネルギーを運送する作用を果たし、大自然の生命循環と繋ぎとめているのである。一方、人類と地上の全ての生物は、みなこの大自然の細胞であって、自然循環の一環に属しているのである。しかし、人類は迷いの中で、だんだん大自然を汚染し、破壊してしまった。これはまるで、病原菌や癌細胞に冒された人体の細胞のようで、表面上人体の細胞であるが、本質はもう人体の細胞ではなくなっているのである。それらの細胞は自然の道に従わず、それに背馳してしまったが、体全体に感染を広がることを避けるためには、取り除かなければならない。人類も自然の道に従わず、それを破壊し続けると、大きな災難に直面しなければならないのである。(最後の一句は私が人に理解しやすくするため、自分の言葉で記述したものである)
※周天(しゅうてん)…道家の修行段階で、任脈・督脈を通じさせる小周天と、それ以降奇経八脈を通じさせる大周天とに大別される。
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