黄帝(こうてい)が治世した時(紀元前2500年ごろ)蒼頡(そうけつ)という史官がいた。彼は、古代から伝わる縄を結んで事を記述する方法で、史実を記した。しかし、時間が経つと、結び目を付けた縄がたまり、何を記録しているのか分からなくなるという問題があった。
ある日、彼が狩りに出かけると、三叉路で同行の年寄りたちが言い争いを始めた。ある老人は、その先にカモシカがいるから東へ行こうと言い、もう一人の老人は、その先遠くないところに鹿の群がいるから北へ行くと言う。更に別の老人は西へ行くべきで、その先に2頭のトラがいるからと言い張った。
蒼頡がそれぞれに根拠を尋ねてみると、皆は地面に残っている野獣の足跡を見て判断したのだと言う。その時、彼は一瞬ひらめいて喜んだ。「一種類の足跡が一種類の野獣を表すことができるのならば、私も符号を使って記録したいものを表現できるではないか」。彼はすぐに走って家に戻り、物事を記述する符号の作成に取り掛かった。人に邪魔されないように、彼は閉じ籠って一心に様々な符号を作り始め、それらを「字」と名付けた。
最初に造った字は、すべて事物の形態を真似て描いたものだった。例えば「日」は丸い太陽を真似て描いたもので、「月」は夕月の形をなぞったものであり、「人」は人間の側面を、「爪」は鳥獣の爪の形を観察して描いた。彼はこのように細かく万事万物を観察し、大変な苦労を経て様々な字を造り上げた。黄帝はこれを知って大いに蒼頡を賞賛し、各部落に行ってこれらの符号の使い方を教えるよう命じた。こうして、彼が造った字は広く使われるようになった。
黄帝は大いに彼を評価し、重宝したが、このため蒼頡は驕り高ぶり、真剣に字を造らなくなった。蒼頡の態度は次第に黄帝の耳に伝わり、彼が傲慢になって堕落することを心配した。蒼頡に自分の誤りを気づかせるため、黄帝は側近で最も年上の老人を呼んで相談した。この老人は暫く考えた後、蒼頡に会いに行った。
蒼頡は部落の人たちに字の使い方を教えているところだった。老人は静かに一番後ろに座って、他の人と一緒に真剣に彼の教えを聞いた。説明が終わって、他の人は皆帰ったが、老人だけは座ったまま動こうとしなかった。彼は不思議に思い、なぜ帰らないのかと尋ねた。老人は、「蒼頡さん、あなたが造った字はすでに津々浦々に知れ渡っています。私は頭も目もぼやけてきたので、いくつかの字がはっきり分からない。もう少し教えていただけないでしょうか」と言った。蒼頡はこんな年寄りでも自分を尊敬し、謙虚に自分から学ぼうとしていることに感動し、さっそく老人の聞きたいことを尋ねた。
老人は言った。「あなたが造った『馬』、『驢』、『騾』の字はすべて4本の足があるのに、なぜ「牛」の字は4本の足がなく、1本の尾だけにしたのでしょうか」
蒼頡は心の中で少し慌てた。「自分は『魚』の字を造る時に『牛』の形に書いて、『牛』の字を造る時に『魚』の形を書いたが、みんなに教える時に、うっかり逆に教えてしまったのだ」と反省した。
老人は更に聞いた。「あなたが造った『重』の字は、『千』と『里』を合わせ、遠くに出るという意味にするべきですが、人の重さを表す『重』の字として教えています。その逆に、二つの山を重ねてできた『出』の字は、重い意味を表すべきですが、遠方に出かける意味の『出』として教えています。更に『身』と『寸』を合わせた字は、身長が低いことを意味する『矮』の字になるはずですが、矢を射る意味の『射』として教えています。その逆に『矢』と『委』を合わせた字は、矢に委ねる意味としての『射』の意味であるはずですが、身長が低いことを意味をする『矮』として教えています。これらの字について、私はどうしても理解できないので、あなたに教えを請いに来ました」
この時、蒼頡はもはや恥ずかしくて顔を上げることもできず、自分の傲慢により生じた過ちの重大さを感じていた。しかし、これらの字はすでに各部落に伝わっており、直そうと思っても直せるものではなかった。彼は老人の前にひざまずき、泣きながら許しを請うた。
老人は蒼頡の手を握って彼を慰めた。「蒼頡さん、あなたは字を創造して、私達の祖先の経験を記録し、後世に伝えるという偉業を成し遂げました。これは本当に素晴らしいことで、後世の人はきっとあなたの功績を称えるでしょう。しかし、これによって傲慢になり、尊大になってはいけません」
その後、蒼頡は一つ一つの字を造る度に、必ず文字の意味を繰り返し推敲し、更に人々の意見を聞き、皆の賛同を得てから決めるようになったという。
(三国時代呉国・徐整『三五歴紀』より)
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