歴史に消えた古代文明

人類の歴史上、多くの古代文明が時代とともに消え去った。残された僅かな遺跡から、高度に発達していた文明の面影を窺うことができる。更に、文明の壊滅には自然の要素以外に、人為的な原因も存在していたことが考えられる。

ナスカ文明

 巨大な地上絵が残っていることで知られるナスカ文明は、紀元前後から500年頃まで、現在のペルー共和国の海岸地帯、ナスカ市周辺に栄えた文明である。灌漑設備が整備され、農業が非常に発達した文明だった。しかし、農業生産のために広範囲に森林を伐採し、農地を開拓した結果、自然環境が破壊され、河川の氾濫や旱魃、砂漠化が起こって農業ができなくなった。数百年を経て発展してきた文明は、完全に消滅した。

マヤ文明

 マヤ文明は、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。数千年の歴史があり、天文学、数学、農業、芸術、文字などの方面において高度に発達し、正確な暦と巨大なピラミッド、神殿などの優れた古代建築を残した。しかし、9世紀の初めごろ、人口の8割がある日突然消え、残されたマヤ人はかつての英知を持たなくなった。

 マヤ文明の消失は戦乱や自然災害によるものではないと歴史学者は検証しているが、なぜマヤ人がこれほどの文明を放棄してこの地を離れたのか、多くのマヤ人はどこへ行ったのか、いまだ不明のままである。

ポンペイ城

 ポンペイはイタリア・ナポリ近郊にあった古代都市、79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれた。

 ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は、約2万人といわれる。西暦79年8月24日、町の北西10キロにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流は、当時の人々の生活をそのままの状態で保存。ポンペイが人々の前にその姿を再び現した18世紀半ばから現在に至るまで発掘が続けられており、地中からは次々とローマ時代の遺品が発見されている。

 遺構の中には娼婦館などもあり、そこで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、ポンペイは快楽の都市とも呼ばれている。この町は商業が盛んな港湾都市で、商人向けの娼婦館のような施設が多かったという説もある。発掘資料には普通の住宅にも春画が多く見られ、当時の人々の生活は非常に堕落していたことが窺われる。

バビロン文明

 バビロンはメソポタミア地方の古代都市である。ここにアムル人がバビロン第1王朝を創設し、紀元前18世紀に第6代の王ハンムラビがメソポタミアを統一した。その後、カッシートやアッシリア帝国などの支配を経るが、文明の中心は一貫してメソポタミア地方であった。バビロンは貿易や商工業の中心であり、物資の集積場でもあった。紀元前600年代の新バビロニア王国時代になってその首都になると、イシュタル門や今でも謎を残す空中庭園などの建造物が建設され、オリエント有数の大都会として栄えた。

 しかし、新バビロニア王国のネブカドネザル2世(在位・紀元前605~562年)の時にはすでに道徳が喪失し、バビロンは贅沢、淫乱のシンボルとなった。神廟の中でさえ娼婦で溢れており、淫らな生活によって男性の体質は急激に低下し、全国的に性病が流行っていたという。紀元前500年ごろ、ペルシア国王はほとんど抵抗を受けずにバビロンを占領した。その後、この世界一の大都市は急速に衰退し、紀元前2世紀には砂漠に埋もれて消えてしまった。

楼蘭

 楼蘭(ろうらん)は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリク)にかつて存在した都市を中心とする国家である。その歴史は紀元前19世紀に遡る。楼蘭から発掘された、いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されている。

 楼蘭はシルクロードの西域南道と天山南路が分岐する要衝にあって、交易により栄えた。紀元前77年に漢の影響下で国名を鄯善(ぜんぜん)と改称したが、楼蘭の名はその後も長く続いた。しかし4世紀頃から国力が衰え、やがては砂漠によって呑み込まれた。その後1900年になってスウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見された。

 楼蘭が砂漠に埋没したのは自然災害によると一般的には考えられているが、一説では、楼蘭の最後の国王とその国民は、表面上は神を信じるように装っていたが、心の中では神を冒涜し、罵って笑っていたため天罰を受けたという。
 

(翻訳編集・益学)