西暦 79 年、イタリア南部のポンペイの町は激しい火山の噴火によって即座に破壊されました。豪華な古代ローマの町は、かつて贅沢な場所でしたが、一晩で停止し、歴史は凍りつきました。
火山噴火は、世界で最も恐ろしい災害の一つです。 2,000 年前、古代ローマの都市ポンペイはかつて非常に繁栄した場所でしたが、一瞬にして火山灰に飲み込まれたのです。
火山灰に飲み込まれたポンペイ
1748年の春、アンドレアという名の農夫が、ぶどう畑を深く掘っていましたが、突然、岩に鍬が突き刺さったようになり、どんなに頑張っても鍬を抜くことができなくなりました。彼はすぐに兄と義理の妹に助けを求めました。結局、土や石が取り除かれ、鍬が金属製のキャビネットを貫通していることが判明したので、大勢がキャビネットを掘り出して開けたところ、溶けた金や銀の宝石やコインなど古代のものがたくさんありました。その後、考古学調査が行われました。
西暦 79 年 8 月 24 日、南イタリアでベスビオ山が噴火し、火山灰と土石流が周辺の3つの町「ポンペイ」と、ポンペイ近くの海に面した裕福な町「ヘルクラネウム」を飲み込みました。
熱いマグマが突然噴出して、ポンペイの町全体を一気に覆いました。 18世紀から19世紀の考古学チームの発掘開始時には、土の中から何かが見つかるとは思っていませんでした。
彼らの説明によると、彼らは掘削プロセスの中で、土の下にいくつかのくぼみの存在を何度か発見し、その穴が何であるか、そして掘削プロセスで穴が次々と開いた理由について考えていました。いくつかの穴はまだ接続されており、これは何かと疑問を抱いていました。
そこで誰かが思いついたのが、石灰と水で液体を作って穴に流し込み、石灰が固まったら隣の土を取り除いて、それが何なのかを調べるというものでした。 そして見つかったものは誰もが驚くものでした!
それはみな埋葬されたものではなく、一瞬にできた遺骨であり、犠牲者の姿勢は、彼らが人生の最後の瞬間に直面した残酷な状況を示していました。ある者は頭を抱え、丸まって痛みに苦しんでおり、またある奴隷は主人に鎖でつながれていたため、身動きがとれず、座ったままの状態で亡くなったのです。
歴史家の記録によると、地震は数日間続き、この地域ではよくある地震活動のため、噴火の事前の準備ができていませんでした。
ポンペイの災害を記録した一通の古代の手紙
この手紙は、当時18歳だったプリニー・ザ・ヤンガーという生存者からのものでした。この出来事は彼の作家としてのキャリアにつながりました。彼はナポリ湾の向こう側から火山の噴火を目撃し、彼が見たものの詳細を手紙に記録し、それらをローマの歴史家「タキトゥス」に送りました。
彼は手紙の中で次のように述べています。「雪松の形状をした雲が地平線から上がってきて、巨大な炎が大地を燃やし始めて、天空が真っ暗になり、火炎が遠くから真っ赤に見え、地震が頻繁に発生し、天と地が揺らいで、人々は外に出られない。燃える火山の瓦礫が雹(ひょう)のように空から降ってきた」。
当時の悲惨な状況が彼の描写から感じられます。
にぎやかなポンペイが一瞬にして埋もれてしまったので、中央広場、お店、寺院、劇場、家、バー、売春宿、公衆浴場、きれいな道路、さらには人間の遺骨までもがタイムカプセルのようによく保存されています。後の歴史家や考古学者は、これにより、1世紀のローマ人の生活を理解することができました。
(つづく)
(翻訳編集:郡山雨来)
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