理解・傾聴 ——職場における最も困難なる修行【日本の中の「仁義礼智信」17】

先入観を捨て、手柄を争わないことによって、初めて物事を真にやり遂げることができる。

職場に、一人の女性同僚がいる。

彼女は最も賢いわけでも、学歴が最も高いわけでも、最も多く話すわけでもない。

会議の際、彼女が発言することはめったになく、議論の際、口を挟むこともめったにない。

しかし、上司から仕事を言い渡されるたびに、それがどれほど複雑で煩雑なものであろうとも、ひとたび彼女の手綱に委ねられれば、それは必ずや全員が満足するものへと変貌を遂げる。

ある人が彼女に尋ねた。

「どうやってそれを成し得ているのですか?」

彼女は少し考えた後、穏やかにこう言った。

「私は上司から与えられた任務を理解しさえすれば、それを学び、やり遂げることができます」

さらに別の人が尋ねた。

「では、どうすれば理解できるようになるのですか?」

彼女は答えた。

「他人の言葉が理解できるのは、自分自身の考えを交えていないからこそ、理解できるのです」

私はこの言葉の前で足を止め、長い間考え込んだ。

自分自身の考えを捨ててこそ、理解できる。

これは謙遜でも、お世辞でもなく、彼女に能力がないということでもない。

それはすなわち、任務を引き受けたその瞬間、彼女は自身の前提を脇に置き、自身の判断を脇に置き、「こうあるべきだという思い込み」を脇に置いたということである。

彼女はまず白紙になり、その上で初めて、相手の言葉を真正面から染み込ませるのである。

このことは、一見すると極めて単純に思える。

しかし試してみるがいい——次に誰かが話している時、自分が何をしているかに注意を払ってみよ。

心のなかですでに反論の準備を始めてはいないか。「そんなことは知っている」「それは同意できない」「それは自分の考えとは違う」と思ったりはしていないか。

そのような声こそが「自分自身の考え」である。

それらの声が存在し続ける限り、相手の語る言葉の半分しか入ってこない。

日本には「素直」という概念がある。

直訳すれば「誠実、率直」であるが、より深い意味合いは、ありのままを平然と受け入れ、虚心坦懐に教えを乞うことである。

竹の如く中空であるからこそ風が通り抜け、節があるからこそ風に折られることがない。

素直な人間とは、考えがないのではなく、受け入れるべき時に自らを空っぽにできる人間のことである。

これは修行を要する能力である。

なぜなら、人間の本能とは、自らの考えを守り、自らの判断を死守することにあるからである。

自発的にこれらを投げ捨てるには、賢さよりも得がたいもの——すなわち謙虚さが求められる。

孔子はこう言った。

「君子はこれを己に求む、小人はこれを人に求む」

君子は内面に向かって求め、小人は外面に向かって求める。

あの女性同僚は、上司に決してこう問うことはない。「この仕事をやり遂げたら、私は何を得られますか」「私を褒めてくれますか」「これは昇進の足しになりますか」と。

彼女が問うのはただ一つである。

「あなたが求めているものは何ですか。私にそれをうまくやらせてください」

彼女のすべてのエネルギーは任務そのものに注がれ、任務の裏にある得失の計算には注がれない。

このことは、老子の次の言葉を想起させる。

「夫れ唯だ争わず、故に天下もってこれと争うなし」

争わないとは、何もしないことでも、結果を気にしないことでもなく、手柄、名誉、利益を争うことに心を囚われないということである。

すべての心を「やり遂げることそのもの」に注ぎ、「やり終えた後に自分は何を得られるか」に注がない時、生み出される成果は自ずと異なったものとなる。

なぜなら、その成果の中には雑念が含まれていないからである。

「自分がどれほど優秀かを見せつけたい」「誰かを出し抜きたい」「上司に恩を売りたい」といった雑念はない。

存在するのは、その仕事そのものと、仕事に向き合う心のみである。

彼女曰く、馴染みのない任務を受けるたびに、自ら学びに行くという。

「これは自分の仕事ではない」と愚痴をこぼさず、「以前やったことがない」と言い訳せず、「なぜ自分なのだろうか」と問うことはない。

ただ学ぶのみである。

その物事を完全に理解し、そしてやり遂げる。

この姿勢は、現代においてますます稀有なものとなっている。

私たちの時代には、次のように考える者があまりにも多い。

この仕事は自分にとって価値があるのか。

この仕事を通じて、自分は何を得られるのか。

この仕事は真面目に取り組む値打ちがあるのか。

すべての損得勘定は「私」を起点として始動する。

しかし、あの女性同僚のすべての勘定は「この仕事」を起点として始動する。

「自分はこの仕事から何を得られるか」ではなく、「この仕事は何を必要としているか、それに応えよう」とするのである。

結果は自ずとそこに伴う。

追い求めるものでもなく、争い取るものでもなく、見せかけのパフォーマンスでもない。

それは実践によって生み出されるものである。

彼女の手を経たすべての仕事には、静謐な質感が宿っている。

この仕事が真摯に扱われたことが感じられ、この仕事に携わる者の心に雑念がないことが感じられる。

それはまるで、四時間をかけてじっくりと煮込まれたラーメンのスープのようであり、二世紀にわたり同じ井戸水を用いて作り続けられる豆腐のようでもある。

雑念なき心によって生み出されたものは、人々の心に深く響く。

曾子はこう言った。

「吾、日に我が身を三省す。人のために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝えしるか」

私は一日に三つの事柄で我が身を省みる。他人のために尽力するにあたり、誠意を尽くしたか。友人と交わるにあたり、信頼を裏切らなかったか。学び得たものを実践したか。

第一の問いこそ、まさにあの女性同僚が日々実践していることである——

他人のために尽力するにあたり、誠意を尽くしたか、と。

「どれだけの量をこなしたか」ではなく、「誠意を尽くしたか」を問う。

誠意を尽くすこと、それは内なる基準である。

他者に見せるためではなく、自らの良心に向かって問うものである。

ある日、彼女は一通の報告書を提出した。

上司は目を通したのち、しばらく沈黙し、こう言った。

「これこそ私が求めていたものだ」

彼女はただうなずき、特別に喜ぶ様子もなく、さらなる称賛を待ち受けることもなかった。

なぜなら彼女にとって、「まさに求めていたものズバリであること」こそが、そもそも唯一の目標であったからである。

やり遂げたのであれば、それで完結している。

何ら興奮する理由などない。

私は傍らでこの光景を見つめながら、ふと別の言葉を思い出した。

二千五百年前、曾子はこう言った。

「士はもって弘毅ならざるべからず、任重くして道遠し」

知識人は、心が広く気骨がなければならない。背負うべき責任が重く、歩むべき道のりが遠いからである。

あの女性同僚は、何か世界を揺るがすような大偉業を成し遂げているわけではない。

彼女はただ、上司から託されたこの目の前の仕事を着実にやり遂げているにすぎない。

しかし、その仕事に向き合うアプローチ——自らを虚しくし、任務の本質を理解し、学び、やり遂げるという道は、あまりに少数の者しか歩もうとしない道である。

なぜならその道には、近道もなく、見せかけのパフォーマンスもなく、「私の優秀さを見よ」と言わんばかりの出口もないからである。

そこにあるのは、ただ仕事そのものと、仕事に向き合う心のみである。

「他人の言葉が理解できるのは、自分自身の考えを交えていないからこそ、理解できるのです」

私は、この言葉をさらに一歩推し進めることができると考える。

自分自身の「欲望」を交えていないからこそ、真に理解できるのである。

単に考えがないのではなく、「この仕事を通じて何を手に入れたいか」という雑念がないということである。

雑念が少なくなって初めて、真に聴き取ることができる。

真に聴き取って初めて、真にやり遂げることができる。

真にやり遂げた時、結果は自ずとそこにある。

追い求める必要もなく、争う必要もない。

ただそこにあるのである。

日本の中の「仁義礼智信」
林道悟
日本の日常に宿る美と、東洋の生活の知恵を発信するコラムニスト。